何かをしようとした時に限って何故か邪魔が入るといった経験は、誰にでもある事だろう。
 しようとした事が大切であればある程、また勢い込んでいればいた程、そんな時は実に舌打ちしたい気分になる。
 何の不思議もない、当然の事だ。
 だが今の私は、そんな苛立ちを超え困惑していた。

「お前……ライダーか?」

 ちょっとした、つまみ食いのつもりだった。
 たまたま好みの女性が目に入ったので、ちょっとおすそ分けをして貰うだけのつもりだった。
 たったそれだけの些細な事。
 だというのに、何故士郎がここにいるのか。
 あまつさえ、何故得物と定めた彼女を庇うように立っているのか。
 これでは、まるで私が士郎の敵ではないか。
 私は頭を抱えたくなった。



大団円を目指して


第25話 「お仕置き」



 バイトも何とか無事に終わり、士郎は帰宅の途についていた。
 新都は夜も人で賑わっているが、偶然だろうか今士郎が走っている道には、他に人影が見当たらなかった。
 マズイかも、と士郎は思う。
 こんなところを敵に見付かっては、問答無用で餌食となってしまう。
 他人を巻き込まないで済むのは良い事だが、自分とて別に死にたい訳ではない。
 だから、士郎は足を速めた。
 自分では勝ち負け以前に、相手にならないのだから。
 昨夜はあっさりと、本当にあっさりとランサーに殺され掛けた。
 何故助かったのかは未だに良く分かっていないが、イリヤがいなければ今頃自分は死んでいた。
 それだけは確かだ。
 自分は何の役にも立たない。
 そんな自分が、心底情けなかった。

 ギシリと歯を鳴らした士郎は、足を速める。
 せめて、キャスターの足を引っ張らないようにしなければ。
 少なくとも、これ以上は。
 その為にも、早く家に帰らなければならない。
 士郎は更に足を速める。
 すると、前方に人影を見付けた。
 女性のようだ。
 痴漢に間違われても何なので、士郎はそのまま追い抜こうとする。

「あれ、衛宮?」

 その時、女性の方から声を掛けられた。

「美綴?」

 彼女は、士郎の友人だった。
 穂群原学園弓道部主将、美綴綾子。
 士郎が弓道部に所属していた頃からの友人である。

「どうしたんだよ、こんな時間に」
「そりゃ、こっちの台詞だって。衛宮こそ、どうしたのよ?」
「俺はバイトの帰りだ」
「あ、はいはい、バイトね。何だ、つまらん」
「何だよ、それ?」
「べっつにい。まあ、衛宮が夜遊びなんてする筈ないわよね。それより怪我でもしたの、それ?」

 綾子は、士郎の左手を見ながら言った。

「あ、ああ。ちょっとな」

 士郎の左手の甲には包帯が巻かれており、隠すように伸ばされたトレーナーの袖からは包帯が少し覗いている。
 刻まれた令呪を、包帯で隠しているのだ。
 うかつにも令呪の事をすっかり忘れていた士郎は、令呪をさらしたまま街中を走り、おまけにバスにも乗ったりした。
 その際に敵に見付からなかったのは、運が良かったと言えよう。
 だが、運もそこまで。
 さすがに、バイト先のネコには気付かれた。
 「何それ?」と彼女に指摘され初めて自分の左腕に刻まれた令呪の事を思い出した士郎は、ぶつけた痣とか何とか誤魔化して、包帯を借りて隠したのである。
 「エミやんがいれるとは思わなかったなあ」とかかんとか言われたのでタトゥーと勘違いされている節はあるが、幸いそれ以上ネコにツッコまれる事はなかった。
 ちと気は重いが。

「ふ〜ん。まあ、その言い草なら大した怪我じゃ……」

 言い掛けた綾子の言葉が、不自然に止んだ。
 息を呑んだ彼女は、何故か目を見開いており、何かに驚いたような顔をしている。
 士郎も、自然と綾子の視線を追う。

 するとそこには、女が一人いた。
 何時の間にいたのかは分からない。
 しかし、さっきまでは間違いなく自分達二人しかこの場にはいなかった。
 なのに、気付けば女はいた。
 黒い印象の、髪の長い、長身の女。
 一目で分かった。
 途端、全身が震えた。
 彼女は……

「……変態だ」

 そう、変態……あれ?
 美綴のその一言で、改めて彼女を見やる。
 彼女は、真っ黒な……ボディコンというヤツだろうか。
 胸元が丸見えで裾もかなり短い、顔立ちとは全く合っていないように思える破廉恥な服を着ていた。
 またアイマスクというか大仰な目隠しをしており、額には刺青のようなものまであった。
 ……ああ。
 言われてみれば、確かに変態だ。
 しかもプレイ中だ。
 正直、少し気が抜けた。
 だが、彼女は間違いなくサーヴァント。
 俺を襲いに来たのだろう。
 せめて無関係の美綴だけは、何としてでも逃がさなければ。
 美綴を庇うように立ち位置を変えてから、俺は問う。

「お前……ライダーか?」

 確信があった訳ではない。
 なのに、不思議とすんなり言葉が出た。
 彼女はライダーのサーヴァント。
 俺を殺しに来た、敵だ。





 一方ライダーは、取り澄ました顔はしているものの、この場をどうやって誤魔化そうかと懸命に頭をフル回転させていた。
 好みの女性がいた。
 ちょっとつまみ食いをしたくなった。
 だから優しく襲おうとした。
 彼女にとっては、たったそれだけの話であった。
 なのにそこには、何故か士郎が一緒にいた。
 途中から一緒にいた士郎に気付かなかったのは、単にライダーが浮かれていたからである。
 マズイ。
 女性を襲おうとしていた事がバレれば、士郎は自分の事を許さない。
 いや、言いようによっては許して貰えるだろうが、間違いなく桜には伝わる。
 つまりは、必ず桜にお仕置きされる。
 非常にマズイ。
 具体的な内容は避けるが、あのお仕置きはライダーにとっては本当に辛く厳しく身の毛もよだつものなのだ。
 澄ました顔は保ったままに、この場を取り繕う方法をライダーは懸命に考えている。
 すると、女性を庇うように立ち位置を変えた士郎が言った。

「お前……ライダーか?」

 敵を見るような目で自分を見ている士郎。
 正直、イタイ。
 愛する男にこのような目で見られる事は、本当に心が痛い。
 だが、お陰で気付けた。
 士郎は、私が士郎を襲いに来たものと勘違いしているようだ。
 よく考えれば、私はまだ彼女を襲う前だった。
 つまりは、彼女に吸血行為をしようとした事はバレていない。
 ならば、まだ間に合う。
 あとは、自分が士郎の敵ではないと、彼の誤解を解くだけで良い。
 士郎を言い包める事など、彼の逆鱗に触れる事でなければ私なら何とでもなる。
 伊達に何十年も一緒に暮らしていた訳ではないのだ。
 さて、では何といってこの場を誤魔化そうか。
 とにかく、自分が士郎を襲いに来た訳ではない事を理解して貰わなければ。

 となると、まずは何の為に私がこの場に現れたのか、その理由を捏造しなければならない。
 当然、彼女の血を吸おうとした、などと正直に言うのは却下だ。
 これは、士郎の逆鱗に触れる。
 被害に合ったのが自分だけなら、それらしい理由を並べれば、そして真実反省をすれば、間違いなく士郎は許してくれる。
 だが、それが他人に及んだ場合は話は別。
 士郎は怒ると怖いのだ。
 率直に言って、士郎を襲いに来たと言った方が遥かにマシだ。
 だから、あくまで彼女は無関係。
 という事は、必然的に士郎が目当てとなってしまうのだが……

 ふむ、でっち上げるのも意外と難しいかもしれない。
 ただの挨拶、と言ったところでさすがに信じては貰えないだろうし、これは最後の手段としよう。
 だが、士郎を襲いに来たとするのもマズイ。
 先程はまだマシと思ったものの、仮に理由をそうした場合、士郎には許されても肝心の桜には許されず、バレた時のリスクが大き過ぎるからだ。
 こう言っては何だが、見知らぬ女性の血を吸ったところで桜は大して怒らない。
 無論、怒られない訳ではない。
 キッチリと怒られ、更には叱られ、最後には反省もさせられ、仕舞いにはお仕置きされる。
 しかし、そのお仕置きは大したものではない。
 あくまで士郎の場合に比べればの話だが、あの特上ともいうべきお仕置きを何度も喰らった私にとっては最早大したものではないと言い切れる。
 ただし、血を吸った相手が士郎となれば、話は全くの別。
 桜にお仕置きされるのは勿論、その内容は確実に最高レベル。
 必ずや特上のものとなる。
 ……駄目だ。
 考えるだけで、全身がカタカタと震えてくる。
 ここは素直に去るべきだろうか。
 彼女を襲おうとした事がバレれば、士郎が怒る。
 士郎を襲おうとした事がバレれば、桜が怒る。
 どっちも嫌だ。
 絶対に嫌だ。

 ……いや、待て。
 そうだ。
 士郎だけを襲うなら、理由によっては士郎は許してくれる。
 無論、桜にバレればキツイお仕置きを喰らう。
 それはもう、これ以上はない程にキツイお仕置きとなる。
 これは確定だ。
 だが、要するに桜にさえバレなければ良いのだ。
 しかもその場合、上手く行けば士郎の血が吸えるかもしれない。
 久しぶりの血が、士郎の血……

 飢えにも似た喉の渇きを自覚した。
 身体の奥がずくりと疼く。
 最早、退けない。
 女として、退けない。
 という訳で、私は自分なりに愛想良く士郎に話し掛けた。

「こんばんは」
「……は?」
「月の綺麗な良い夜ですね」
「……」

 まずは天気の話から。
 会話の糸口は天気の話からと、昔読んだ書物にあったのだ。
 フフ、自分の記憶力が怖い。

「ところで貴方は魔術師ですね?」
「……」

 む……少々唐突過ぎただろうか。
 士郎の警戒レベルが上がった気がする。
 まあ、これは仕方ないだろう。
 士郎は、私を敵だと思っているのだから。

「ご心配なく。私は貴方の敵ではありません」
「信じられるか」
「ふむ。これは手厳しい」

 まあ、これも仕方ないだろう。
 士郎にとって、私は初対面のサーヴァントに過ぎないのだから。
 ……うう、胸が痛い。
 だが、私は負けない。

「ですが本当です。私のマスターは争い事が嫌いですから」
「……何だと?」

 よし、簡単に喰い付いた。
 思った通りだ。
 フフ、ちょろいです。

「私のマスターは、実は貴方の知り合いです」
「知り合いだとッ!?」

 しまった、調子に乗り過ぎた。
 つい、言い過ぎてしまったようだ。
 反省。
 だが、まあ良い。
 サクラの名前さえ出さなければ大丈夫だろう。
 きっと。

「本当ですよ、衛宮士郎」
「お前……」
「誤解しないで下さい。私も私のマスターも、本当に貴方と争うつもりはないのです」
「……」

 よしよし、乗って来た、乗って来た。
 何か楽しくなって来た。

「信じられないのも無理はない。ですが最初に言ったとおり、私も私のマスターも士郎の敵ではありません」
「……」
「私達は、士郎の味方です」

 そして私は、自分のマスターがいかに優しくも聡明かつ素晴らしい人であり、この聖杯戦争にどれほど心を痛めているのかを説明した。
 サクラの名前は出せない。
 本当は言いたいし、言ってしまえば一発で私達の事を信じて貰えるだろうが、サクラはあくまで士郎を聖杯戦争に巻き込まないつもりでいるからだ。
 例え士郎が魔術師とはいえ、サーヴァントさえ召喚さえしなければあくまで無関係といえる。
 私を一目でライダーと見抜いたのだから、さすがの士郎も聖杯戦争の事は元より知っていたようだが、ともあれ私は話を進める。
 先程、即興で考えたシナリオ通りに。
 その内容は、以下の通りである。

 私も私のマスターも、争うつもりはない。
 この戦争を止めたいと、心の底から願っている。
 この場に現れたのも、自分のマスターの知り合いである士郎に挨拶をしようとしただけ。
 私は、私の心優しいマスターの願い通りに、この戦争を止める為に動いている。
 事実、私は貴方を襲うつもりはない。
 勿論、人に迷惑を掛けるつもりもない。
 しかし……だかしかし!
 いかんせん私は吸血種!

 あ、吸血”鬼”ではなく吸血”種”です。ここ、大事です。
 吸われても全く問題ないのです。ええ、献血のようなものです。そこ、勘違いしないで下さいね。

 という訳で、人に迷惑など掛けたくないのに、私の本能がそれを許さない。許してくれない。
 私の本能が、吸血種である本能が、どうしても人の血を求めてしまうのだ。
 このままではマスターの言い付けを破ってしまう。
 人の血を吸いたくなどないのに、このままではマスターの信頼を裏切ってしまう。
 嗚呼!
 私は一体どうしたら良いのだろう!
 美しくも慎み深く誰よりも麗しい我がマスターは、人を襲う事を許さない。
 自分とて、襲いたくはない。
 だが悲しいかな、私は吸血種。
 そう……ひっそりと平穏に暮らす事を望んでいながら、それでも私は吸血種。
 人の血を吸わずにはいられない、悲しい(さが)を持つ運命(さだめ)
 嗚呼、私はなんと罪深い存在なのだろう!
 この悲しき運命の鎖を打ち破る人が、この世の何処かにはいないのだろうかあッ!!

 という感じの事を、ここまで一気に反論の余地を与える事なく熱意を以って捏造を熱弁した。
 ここまでくれば、士郎なら「俺の血を吸え」ときっと申し出てくれる事だろう。
 フフ、計画通りです。
 士郎なら絶対にそう言ってくれるだろう事を、私は確信している。
 あとは、愛するマスターを悲しませたくないのでマスターには内緒にして欲しいとか何とか言って承知させれば、正に完璧。
 士郎は、約束は守る。
 上書きされることもままあるが、それはそれ。
 この場合はまず大丈夫だろう。
 久しぶりの吸血の相手が、愛する士郎。
 これ以上の相手はいない。
 完璧だ。
 これ以上ない程に完璧だ。
 フフッ、自分の才能が怖いです。

 ライダーは調子に乗っていた。
 もう、ノリノリだった。
 完全無欠にノリノリだった。
 ついでに言うなら、かなり馬鹿っぽかった。
 何にせよ、このまま一気に慎重かつ大胆に士郎を言い包め……もとい、説得を行うべく、ライダーは勢いのままに畳み掛けようとする。
 が、しかし。

「なあ、衛宮。さっきから訳分かんない事言ってる、その変た……そのヒト、知り合いか?」

 ライダーの皮算用は、綾子の横合いからの言葉であっけなく崩れた。

 ――――もしや、彼女は今、私を変態と言い掛けたのだろうか……

 ライダーのこめかみが、ピキッと引きつった。
 結構、引きつった。

 化け物と呼ばれるのは仕方がない。
 そう言われたとしても、甘んじて受け止めよう。
 事実、私は化け物なのだから。
 だが私は、断じて変態などではない。

 ライダーは、今の自分を客観的に見る事が出来なかった。
 ちなみに今の彼女は、その存在感を人並みにまで落としている。
 ようするに、威圧感がまるでない単なる一般人状態だ。
 これが出来なければ、サーヴァントが日常生活を送る事など出来ず、サーヴァントなら誰にでも出来る事である。
 あくまでつまみ食いが目的だったライダーは、恐怖を与える事が目的ではなかったので、優しく怯えさせず血を吸う為に、その威圧感を一般人レベルにまで落としていたのだ。
 そこを綾子が勘違いした。
 実際のところ、えらく熱くなりながらかなり馬鹿な事を随分と自分に酔いながら唾を飛ばす勢いでまくし立てていたライダー。
 そんな彼女は、綾子から見ればただの変態でしかなかった。
 あるいは痴女。
 というか、もう馬鹿そのものだった。
 故に目の前のソレが、サーヴァントという人間を超えた存在だと、綾子が気付く事はなかった。

 そんなこんなで変態呼ばわりされたライダーだったが、少々カチンときたもののそこは大人の女性。
 決してムキにはならなかった。
 所詮、相手は一般人。
 ムキになる必要もない。
 ここは優しく言い諭してあげるのが、大人の役割というものである。
 だから彼女は、諌めるように言った。

「黙りなさい、このブス」

 実に大人気ないライダーであった。

「ブ、ブスって……ハァ!?」
「士郎と私は今大切な話をしているのです。さっさと消えなさい、このブス」
「何ッ!? アンタ今、あたしにブスって言ったのか!?」

 美綴綾子、十七歳。
 生まれてこの方、ブスと言われた事はなかった。

「言いましたが、何か?」

 大人気ないライダーは、段々と綾子が煩わしくなってきた。
 好みの女性ではあったものの、士郎と比べれば所詮は十派一からげ。
 比べる事自体が士郎に失礼な話であった。
 なのにこの女ときたら、何を勘違いしたのか分も弁えずにキャンキャンとうるさく喚いている。

 この女、邪魔だ。
 ……うん、とても邪魔。

 段々と物騒な事を考え始めるライダーであった。
 だが綾子にとっては、ライダーは単なる変態。
 自分の事を結構イケてると内心思っていたりする綾子にとって、たかだか変態にそんな事を言われるのは我慢がならなかった。
 ちなみに綾子は『美人は武道をしていなければならない』という妙な美意識の持ち主であり、その為武芸百般に精通している、一般人レベルでは豪傑と言って良い女性である。
 自分が美人と言っているようなものだが、要は己の容姿と腕に自信があるという事だ。
 負けん気も強く、だからこそ己の矜持に掛けてもここは退けなかった。
 ここで退いては、女が廃るのだ。

「……いやあ。アンタみたいな痴女に、ブスとか言われるとは思ってもいなかったね、あたしゃ」
「ハァ……痴女!? 痴女と言いましたか、この私を!?」
「そんな格好、痴女以外の何者でもないだろうに。この変態女が」
「……言ってくれましたね、小娘如きが」
「あたしが小娘なら、アンタは下品な、しかもケバい年増だね」
「と、年増ッ!?」

 生前も死後も今現在もついぞ言われた事のない言葉に、ライダーは自分でも意外な程の大きな衝撃を受けた。

「うわ、自覚のないんだ」
「と、年、増……」
「あ〜あ、自覚のない変態ってヤダねえ」
「……」
「取り合えず、その年甲斐もないカッコ止めたら?」
「お、おい、美綴!?」
「ってゆーかさ、恥って日本語、アンタ知ってる?」

 立て板に水の如く、悪口雑言をつらつらと並び立てる綾子。
 今の彼女は、鎖に繋がれていない猛獣の前で挑発を繰り返しているようなものであり、サーヴァントの恐ろしさを知る者にとっては気が気でなかった。
 当然、士郎は止めようとした。
 だが止まらない。
 美綴綾子は止まらない。
 罵倒、悪態、何でもござれ。
 いくらなんでも、とか、そこまで言わなくても、とか、庇うつもりもないのについつい士郎が思ってしまうくらいに、彼女はこれまでの暴言が可愛く思える程の毒舌を以って相手を更に扱き下ろした。
 最早反論する事も出来ず、黙って耐えるしかないライダー。
 だが、ここまで言いたい放題に貶された彼女が、このまま大人しく引き下がる事はあり得るだろうか。
 いや、ない。
 あり得ない。
 この後必ずや来るであろう反動に、士郎は違う意味で恐怖した。

「士郎」
「あ、ああ」
「……貴方からも言ってあげなさい。さっさと家に帰って布団を被って寝てしまえと。それが彼女の為だと」

 しかしライダーは我慢した。
 士郎の手前、口の端をヒクヒクとさせながらもライダーはグッと我慢をした。
 そして彼女は一つ息を吐くと、思いの丈を一気に言い放つ。

「これ以上私達に関われば、貴女の日常が崩れます。いえ、命の危機すらあるのです。このまま大人しく家に帰りなさい。そして忘れなさい。そうすれば、これまでの暴言の数々は忘れてあげましょう。心の広い私に感謝なさい。いえ、是非するべきです。ああ、そうそう。寝る前には必ずトイレに行く事をお勧めします。怖い夢を見て寝小便でもした日には、その年で、レディとして、首を括りたくなるくらいに恥ずかしいでしょうから。その時は寝小便の事実を世間に広めて上げましょう。ええ、必ずや。いえ、大した手間ではありませんので、お礼を言われる程の事ではありません。いや、私は本当に心が広い。自分でも感心してしまうくらいです。褒めて下さい、士郎」
「あ、アンタさあ……」

 綾子が呆れたように言い掛けたその瞬間、ライダーの姿が目の前から消えた。

「……え?」

 一瞬、呆ける綾子。
 だがすぐにも現状を理解し、綾子はライダーの姿を探す。
 すると、

「人の親切を無駄にしないで欲しい」

 いきなり耳元から声が聞こえた。
 すぐ後ろから、息遣いを感じるくらいの近い距離で。
 咄嗟に綾子はその場から離れ、振り返る。
 しかし振り返った先には、既に彼女の姿はなかった。

「いい加減にその小便臭い口を貴女は塞ぐべきだ。私はこれから士郎と大切な話がある。無関係な人はさっさと消えなさい。それが貴女の為でもあるのだから」

 姿無き声が、ビルの谷間に響く。
 懸命にライダーの姿を追う綾子。
 しかし、人がサーヴァントの動きについて行ける筈もない。
 サーヴァントがほんの少しでも牙を剥けば、最早ヒトでは成す術もない。

「やめろッ!!」

 たまらず士郎が、綾子の前に飛び出した。
 言い過ぎた綾子が確かに悪いが、それでもこのまま彼女が傷付けられるのを黙って見過ごす訳にはいかなかった。
 自分はどうなっても良いと、身体を張って綾子を庇おうとする士郎。
 だが悲しいかな、魔術師であろうとヒトはヒト。
 ”今”の士郎では、サーヴァントには敵わない。

「ご心配なく。彼女には毛ほどの傷も付けません。そんな事をしては士郎の信用を失ってしまいますから。ただ……」

 未だに綾子は、ライダーの姿が捉えられない。
 綾子の息は荒い。
 声はすれども姿は見えず。
 人の身では成せる筈もないこの現実に、さすがの彼女も恐怖を感じているのだろうか。

「そろそろ我慢も限界なのです」

 ライダーは、最後通牒とも言うべき言葉を綾子に突き付けた。
 それは、綾子がヘタに言い返せば命取りにも成りかねない言葉であった。
 しかし綾子は気丈だった。
 そしてその気丈さが、言ってはならない言葉を彼女に言わせてしまう。

「何を偉そうに! このデカ女(・・・)がッ!!」

 瞬間、綾子の姿までもが消えた。
 いや、士郎には見えた。
 綾子を攫ったライダーが、近くの雑居ビルを跳ぶように駆け上がって行く姿を。

「この戦争に首を突っ込めば、命がいくつあっても足りない。それは士郎にも分かって貰えると思いますが、彼女には分からなかったようです。やむなく彼女を説得しますので、少々お待ち下さい。何、すぐですから」

 頭上から降る、何やら楽しげなライダーの声。
 昨夜殺され掛けた士郎は、その言葉の響きから彼女がどのような”説得”をするのかが容易に想像出来てしまった。
 心臓を抉られた感触を、勝手に身体が思い出してしまう程に。
 途端、全身が震え上がる。
 だが、それでも。
 そう、それでも。
 強張った身体を強い意志でねじ伏せた士郎は、ライダーを追うべく雑居ビルの非常階段を駆け上がった。





 六階建ての古い雑居ビル。
 転落防止用のフェンスなどある筈もないその古いビルの屋上に、二人はいた。
 綾子の立ち位置は、屋上の端。
 二歩も下がれば転落してしまう危うい位置に、綾子は立っていた。
 否、立たされていた。
 眼の前には、逃げ道を塞ぐようにライダーが立っている。

 ――――さて、どうしてくれよう。

 無表情のまま、ライダーは思案する。
 攫ったは良いものの、これからどうするかの明確なビジョンが彼女にはなかった。
 決めているのは、この生意気な小娘に少々キツイお仕置きをしてやる事だけである。
 だが、具体的な案はない。

 この女は士郎の知り合いのようだし、やり過ぎるのはマズイだろう。
 でも、少しくらいは怖い目に合わせたい。
 いや、合わせた方が良い。
 このような、愚にも付かぬ戯言を垂れ流すしか能のない身の程知らずの小娘は、少しくらい怖い目に合った方が身の為なのだ。

 そんな事をライダーは思う。

 そもそも自分のような心優しいサーヴァントでなければ、とうの昔に彼女は殺されている。
 ここまで我慢を重ねた自分は、賞賛に値するだろう。
 いや、賞賛されるべきだ。
 これが、些細な挑発で自分に斬り掛かって来るようなあの気の短いセイバーなら、とっくにこの小娘はブチ殺されている。
 そう、彼女は懲りた方が良いのだ。
 それが彼女の為なのだ。

 そんな身勝手な事をライダーは思う。
 そもそもセイバーなら、最初からここまで言われる事自体が無かったのだが、そんな事はライダーには関係ないのであった。

 さて、愛する士郎が私を待っている。
 下らないお仕置きはさっさと済ませよう。

 そんなどこまでも自分本位な事を考えながら、ライダーは無造作に右手を前へ突き出す。
 そして、トン、と軽く綾子の胸を突いた。

「……え?」

 後ろに押された綾子はたたらを踏み、抗う間もなくビルの屋上から転落した。

「……え!?」

 ようやく思考が現状に追い付き、綾子の口から悲鳴が上がる。
 だが悲鳴を上げ切る前に、激しい衝撃を綾子は感じた。
 訳が分からず、綾子は思わず閉じた目をゆっくりと開く。
 開いた目から見える光景は、天地が逆さまに映っていた。
 目の前には、女の足。
 視線を上げれば、その先には小汚い路地が見える。
 綾子は、ライダーに片足を掴まれ逆さ吊りにされていた。

「な……な、何すんだよッ!!」

 恐怖から綾子は叫んだ。
 叫ばなければ、自分がどうにかなってしまいそうだった。
 だから彼女は「離せ」と叫んだ。
 ビルの屋上の端で逆さ吊りにされ、実際に離された時は地面に落下し潰れたトマトのようになってしまうが、それでも彼女は「離せ」と叫んだ。
 叫ばずにはいられなかった。
 だが自分を宙で逆さ吊りにしている存在は「良いのですか」と、人を小馬鹿にするような事を訊いて来る。
 その上「反省は出来ましたか」とか「出来たなら謝罪なさい」とか「ごめんなさいと鼻水を垂らしながら言えば心の広い私は許してあげましょう」など、実にふざけた事を言って来る。

「ふ、ふざけんなッ!!」

 人を馬鹿にするにも程がある。
 こんなのは脅しだ。
 本当に離せる筈がない。
 こんなにも簡単に、人を殺せる”筈”がないのだ。

「やれるモンならやってみろッ!!」

 だから彼女は、強気に答えた。
 脅しには乗らないとの、綾子の意思表示である。
 殺される覚えなどない綾子にとって今の状況は全く以って理不尽な話であり、このまま引っ込める程、彼女のプライドは安くはなかった。
 だが、単に現実感を感じていないだけなのかもしれない。
 相手は、片腕で人間一人を軽々と宙吊りにしているというのに。
 綾子は知らなかった。
 平然と人を殺せる存在を。
 人を超えた存在を。
 そして、勘違いをしていた。
 これが只の脅しだと。
 のんきとも言えるライダーの口調から、彼女が本気とはとても思えなかったのだ。
 何しろ彼女からは、殺気というものが一切感じられない。
 当然、目の前の相手が人を虫けらのように殺せる存在だと解る筈もない。
 元より、意識的に殺気を飛ばし相手を脅すなどといった器用な真似は、ライダーには出来なかった。
 する必要がなかった。
 殺すと思った相手は、殺せば良いだけの話なのだから。
 そう、綾子は知らなかった。
 ライダーにとって、殺人は禁忌ではない事を。

「……そうですか。これは困った」

 だが、それはそれ。
 ライダーは殺人を忌避してはいないが、別に殺したいとも思っていない。
 何より、士郎の手前もある。
 少々脅すくらいなら許されるだろうが、万が一にも怪我をさせればそれは士郎の逆鱗に触れる。
 そんなのは、ごめんだ。
 結局脅す事くらいしかライダーには出来ず、その為彼女は困っていた。
 割りと困っていた。

 ……段々と馬鹿馬鹿しくなって来た。
 関わるのを止めて、このまま放置するべきだろうか。
 しかし、このまま治めるのも座りが悪い。
 というより、気が済まない。
 一言謝罪をすれば、まだ許したものを……
 あ、また腹が立ってきた。
 大体にして、何故こんな事で悩まなければならないのか。
 この小娘が余計な口出しさえなければ、今頃は間違いなく士郎の血を吸っていたというのに……
 そうだ。
 士郎の血が私を待っているのだ。
 こんな小娘にかまけている暇はない。
 いや、かまける事自体が馬鹿馬鹿しい。
 もう何でも良いからさっさと終わらせて、その後士郎の血をありがたく存分に吸わせて貰おう。

 未だに士郎の血を吸える気でいるライダーは、ある意味凄いと言えるのだろう。
 そんな訳で、彼女は綾子の望み通りにする事にした。

「良いから放せよッ!!」
「分かりました」
「……え?」
「そこまで言うのであれば、致仕方ありません。望み通りにして上げましょう。ところで放すの良いのですが、こういう時には何か洒落た言葉が欲しいところですね。さて、何か良い言葉はありますか?」
「お、おい……アンタ……」
「ないですか。では僭越ながら、私が」
「アンタ、ちょっと……!』
「そうですね。これから宙を飛ぶ訳ですし、こんな感じでいかかでしょうか」
「おいッ!!」

 そして彼女は薄笑いを浮かべながら言った。

「You can fly」

 そんな小洒落た台詞を言いながら。
 あっけなく。
 本当にあっけなく、ライダーは手を離した。

「あ――――」

 重力に引かれ、落下する綾子。
 全身の毛が勝手に逆立ち、彼女はこの時になってようやく理解した。
 今、自分は死ぬのだと。
 自分が死ぬ事など、考えた事もなかった。
 想像した事すらなかった。
 しかし今、容易に鮮烈に理解した。
 自分はこれから地面に叩き付けられグシャリと潰れて死ぬのだと。
 思考が現実に追い付き、彼女の口から今更ながらの悲鳴が上がった。



 夜のしじまを切り裂くような、恐怖にまみれた絶叫だった。



 しかしその時、破る勢いで屋上の扉が開かれる。

「美綴ィ――――ッ!!」

 そして綾子の墜落する様を見た士郎は、すぐさま彼女を助けるべく彼もまた宙を飛んだ。
 最早間に合わない事は解っていたが、それでも士郎は綾子を追った。
 落下する綾子に空中で追い付き、せめて自分の身体で庇おうと士郎は彼女を抱き寄せる。
 出来た事は、たったそれだけ。
 そのまま成す術もなく二人は共に落下し地面に激突する。
 寸前、ライダーが二人を助け士郎達を安全に地上に降ろす。

 士郎の命を賭けた行動には、何の意味もなかった。





「貴様……」

 薄汚れた路地裏の奥。
 士郎は憎しみの目でライダーを睨んでいる。
 士郎に抱き抱えられた綾子は気を失っている。
 ライダーは一人ぽつんと所在なさげに士郎の前に立っている。
 彼女の姿は、二人の力関係からすればおかしな事だが、まるで親に叱られるのを怖がっている子供のように見えた。

「……そんな目で見るのは止めて下さい、士郎。悲しくなります」
「ふざけるなよ、貴様」
「約束通り、彼女には毛ほどの傷も付けていません」

 ライダーは、自分にとって当然の事実を口にした。
 その何の反省も後悔もない言葉に、士郎はそっと綾子を地面に横たえると、

投影(トレース)開始(オン)

 己の武器を投影した。
 この女を許す訳にはいかない。
 絶対に。
 例え、殺されようとも。
 令呪の事は、怒りに染まった今の士郎の頭からは綺麗に抜け落ちている。

「わ、私は、何一つ嘘を言っていません!」

 士郎の行動に慌てたライダーが、懸命に釈明をした。
 彼女にとっては、自分の言葉に全くの嘘偽りはない。
 元々ライダーに綾子を殺すつもりはなく、死にそうになったところで助けるつもりだった。
 事実、そうした。
 ライダーにとっては、先程の行為もあくまでお仕置きの範疇に過ぎず、少々脅そうと思っていただけの事である。
 怪我さえさせなければ問題ない。
 彼女はそう考えていた。
 サーヴァントである己の基準で。
 だが、当然士郎は納まらない。

「そういう問題じゃないッ!!」

 今や士郎のライダーを見る目は、完全に敵を見るものだった。
 方やライダーは、どうしてこうなるのだろうと泣きたい気持ちでいっぱいだった。

「士郎、私は本当に……」

 ライダーの言葉を無視して、士郎は無言のまま一歩前に出る。
 サーヴァントに対する恐怖を忘れた訳ではない。
 忘れる事など出来る筈もない。
 しかし今は怒りが恐怖を塗り潰している。
 何より守るべき人が後ろにいる。
 ならば負けない。
 負けられない。
 そのまま士郎は一気に斬り掛かる……つもりだったのだが、ライダーが怯えたように一歩後ずさった。
 その動作に、士郎は不審を覚える。

 何だ、今の怯えたような動作は。
 そもそもこの女は何をこうまで言い訳しているのだろうか。
 自分ではサーヴァントには勝てない。
 それはこいつも分かっているだろうに、何故。
 小細工か?
 いや、サーヴァントが自分程度の人間にそんな事をする必要もない。
 なのに、何故。

「……どうつもりだ?」
「……」
「何故、後ずさるような真似をした?」
「……」
「答えろッ!」
「ハイッ!! で、ですから私は――――ッ!」

 ライダーは必死になって説明した。
 彼女の暴言に腹を立てたと。
 それでも我慢していたと。
 だが自分が気にしている背の高さの事を悪し様に言われどうしても許せなくなったと。
 だが最初から怪我をさせるつもりはなかったし、実際にさせていないと。
 あくまで自分は脅かすだけのつもりだったと。
 ライダーは事実を必死に話す。
 誤魔化す事も言い包める事も出来なかった。

 そんな余裕はなかった。

 ライダーの身振りを交えた説明を、訝しげな眼差しで聞く士郎。
 彼の疑問は尽きない。
 この女の態度は、絶対の強者がとるものではない。
 言っている事も士郎の聞きたかった事ではなく、只の言い訳にしか聞こえない
 というか、何故言い訳なんて真似をするのかが聞きたいのだが……

「そうじゃない」
「す、すいませ……」
「そうじゃなくて、何故俺に怯えるような振りをする」
「……ハ?」

 ”振り”とは、何の事だろうか。
 実際、士郎に怯えているのだが。
 士郎に怒られるのは怖い。
 嫌われるのは、尚怖い。
 自分にとっては恐怖そのもの。
 当然、今の士郎に自分が怯える事は、何の不思議もない。

「……私が士郎に怯えているのは、士郎が怒っていて怖いからですが、何か?」
「……貴様、ふざけているのか」
「違います! 私は必死です! こんなにも必死ですッ!!」

 自分の必死さを決死の思いでアピールするライダー。
 しかし士郎にとっては解せる筈もない。
 なに言ってんだ、コイツは?
 正直そんな心境だった。

「……もしかして、お前のマスターが怒るのか? 俺を敵にしたから」
「て、敵ですか!? 敵になってしまったのですかッ!!?」
「いや……そりゃ当然じゃないか?」
「何故です!? そりゃ遣り過ぎたかもしれませんが、彼女は何一つ怪我してないじゃないですかッ! それで敵なんて、あんまりです!! あんまりです、シロウッ!!」

 訳が分からなくなってきた。
 コイツは、何をこんなに必死になっているのだろう。
 二度も言ったし。
 何と言うか、気が抜けた。
 自分は何か致命的な勘違いをしているのではないだろうか。
 そんな気がしてきた。
 とてもしてきた。

「……なあ」
「は、はい……」

 彼女は士郎の言葉に、いちいちビクビクと反応する。

「いや、そんな怯えなくて良いから」
「……はい」
「だから、もう一度キチンと説明してくれないか? 何故こんな事をしたのか。何故俺に怯えるのか」
「だから、さっきから言ってるじゃないですか!! 私は――――ッ!!」

 ライダーは同じ事をしゃかりきになりながらも根気よく説明した。
 自分にとっては、単なるお仕置きのつもりでしかなかったと。
 最初から傷付けるつもりはなかったし、身体的には何の傷も負っていないと。
 そして士郎に怯えているのは、士郎が怒っているからだと。
 士郎に叱られるのは怖いし、何より嫌われる事が怖いのだと。

 かつては士郎と共に暮らし、愛しているからこそのライダーの心情。
 だが士郎にとってはライダーは初対面の、しかも綾子を襲ったサーヴァント。
 当然、二人の話は噛み合わなかった。
 士郎のライダーを見る目は、戸惑いはあるものの未だ厳しい。
 これまで士郎に、家族として大切な人として思われていたライダーにとっては、十分に耐え難い視線だった。
 話も食い違うばかりで、もはや吸血云々どころではない。
 士郎の視線に耐えられなくなったライダーは、この場から逃げ出す事にした。
 余りにも、居たたまれなかった。
 一息で士郎の間合いから離れ話を打ち切ったライダーは、最後にもう一度謝罪する。

「どうやら私はやり過ぎたようですね。士郎がここまで怒るとは思ってもいませんでした。どうもサーヴァントである自分の基準で考えていたようです。本当に申し訳ありませんでした、士郎」
「俺に謝っても意味がない」
「……そう、ですね。彼女には改めて謝罪……」
「いや、二度とコイツの前に顔を出すな」
「そんな事を言わないで下さい、士郎……悲しいです。泣きそうです……」

 被害が他の者に及んだ場合は士郎の逆鱗に触れる。
 そんな事は、最初から解っていたというのに。
 何と私は愚かなのだろう。
 士郎の言葉が、こんなにも、イタイ。

「……本当に、本当に申し訳ありませんでした。また日を改めて謝罪しますので……いえ、謝罪します。させて下さい、お願いします。ですから、その……本当に、あの…………それでは、これで……」
「待て」

 士郎の言葉に、ビクリと身体が硬直するライダー。
 逃げる事も許されないのだろうか。
 ビクビクしながら、おそるおそるとライダーは士郎へと視線を送る。

「お前、これからどうするつもりだ?」
「ハァ……マスターの元に帰るつもりですが」
「その途中で、また誰かを襲うつもりか?」
「いえ、決して。さすがの私もそれはさすがに……しばらくの間は自粛します」
「結局、人を襲うのか」
「……私だって、私だって、人に迷惑を掛けたい訳じゃ……」
「言い訳は止めろ」
「……申し訳ありません」
「……」
「ですが、その……私は吸血種でして、ですからその……やむを得ないと言いますか……」
「……」
「いえ、今回のような脅かす真似は、もう二度と。本当に。ですが……」
「分かった」
「ハァ……」
「俺の血を吸え」
「……ハ?」

 思わぬ士郎の言葉であった。
 これまでの流れから何故そんな言葉が出てくるのか、ライダーは不思議でしょうがない。
 士郎の事は、桜の次によく理解していたつもりだったのだが……やはり士郎は侮れない。
 尽きぬ疑問はさて置いて、彼女は士郎に問い掛ける。

「え〜と、その……士郎の、血を?」
「そうだ」

 ……これはもしや、私を試しているのだろうか。
 士郎がそんな事をするとも思えないが、とにかく二つ返事で「頂きます」と言う訳にはいかないだろう。
 餌は美味しそうだが。
 とても美味しそうだが。
 私は断腸の思いで断った。

「いえ、それはさすがに……何より士郎に迷惑は掛けられません」
「迷惑じゃない」

 ライダーにとっては不思議で堪らない士郎の申し出だったが、士郎にとってはごく当然の事だった。
 自分が犠牲になれば、誰かが襲われる事もなくなるのだから。
 そんな事があってはならない。
 そんな事があっては、自分が耐えられない。
 これは、士郎自身の為でもあった。

「この事は誰にも言わない。約束する。だから俺の血を吸え。その代わりに他の人達を絶対に襲うな。約束しろ」
「いえ、士郎の血が吸えるなら、別に他の人の血を吸いたいとも思いませんが……」

 最高のステーキを食した後、ハンバーガーは食べられない。
 そんな諺があったような、なかったような。
 成る程、ようやく士郎の考えが理解出来た。

 ――――何処までバカなのだろう、このヒトは。

 私の愛する男は、どこまでも馬鹿だった。
 だがそんな男だからこそ、私は愛し、そして求めた。

「……ありがとう御座います、士郎。貴方のお陰で、私は他の人に迷惑を掛けずに済みます」

 お陰も何もない。
 士郎にとっては、他の人が犠牲になるよりは自分が犠牲になった方が、余程ありがたい。
 自分さえ犠牲になれば、他の人が襲われる事もなくなる。
 ならばどちらを選ぶのか、士郎にとっては自明の理でしかない。

「約束しましょう。いえ、約束します。そして誓います。士郎以外の人の血を、決して吸わない事を」
「そうか……良かった」

 彼は、ようやく心の安息を得たのであった。
 初対面であるサーヴァントの約束をどこまで信じて良いのか士郎には分からなかったが、己の無力を嘆く事すら出来ない士郎にとっては、もう他に出来る事はなかった。
 例え殺されたとしても、他の人が襲われるよりはまだマシだ。
 士郎にとっては。
 この時点で、自分が殺されてはキャスターとの約束が守れない事や、大河やイリヤが大いに悲しむだろう事は、士郎の頭から完全に抜け落ちている。

 良くも悪くも、それが士郎という男であった。

 恋する乙女のように胸を高鳴らせながら、ライダーはゆっくりと士郎に近付く。
 そしておそるおそる士郎を抱き締めると、そっと首元に顔をうずめる。

 ――――ああ、シロウの匂いだ。

 堪らなくなった彼女は、むしゃぶり付くよう彼の首に吸い付いた。
 だが、まだ牙は立てない。
 唇で、舌で、士郎の首元をねっとりと存分に堪能する。
 そして彼女は、精一杯の想いを込めて優しく牙を突き立てる。


 愛する士郎(オトコ)の血は、正に甘露であった。


 吸血した量が400mlとキッチリ献血一回分であった事は、ライダーが一応気を使った事実の証明といえよう。
 もっとも、昨夜かなりの血を流した士郎にとっては、何の意味もなかったが。
 ともあれライダーは、ようやく己の願いを叶えたのである。

 後日、ライダーが士郎の血を吸った事は結局桜にバレ、桜からキッツイお仕置きを喰らう破目に陥るのだが、それはもう彼女の自業自得というものであろう。





 月明かりの下、綾子を背負った士郎が歩いている。
 さすがに疲れているのか、足取りは重い。
 意識も時々飛びそうになっている。
 しかしそれでも歩みは止めず、彼は一歩一歩確実に足を進めている。
 士郎の自宅までは、もうすぐであった。
 と考えた時、また意識が飛びそうになった。
 士郎は、気が抜けそうになる自分を叱咤する。
 遠足は、家に帰るまでが遠足なのだ。
 こんな時に我ながら馬鹿な事を考えているなあ、なんて事を思いながら、ふと彼は今日一日の事を思い返した。
 思えば、なかなかにハードな一日であった。

 朝は、起きれば両隣に藤ねえとイリヤが寝ていた。
 真っ裸で。
 朝っぱらから土下座した。
 ぱんつも履かずに。

 で、二人から責任を取れと迫られた。
 土下座して謝った。
 服は着ていた。

 キャスターとイリヤが、喧嘩した。
 藤ねえが土下座して事を治めた。
 耐えられなかった。
 そのくせ竿姉妹などと馬鹿な事を言い出し、思いっきり場を寒くしていた。
 何故かキャスターは感心していた。

 イリヤが自己紹介をして、切嗣の娘である事を知った。
 とても驚いた。
 でも藤ねえは結局のんきなままで、藤ねえはつくづく藤ねえだったと、いたく感心した。

 キャスターに、自分が非常識であるとツッコまれた。
 何故かイリヤがキャスターに同情していた。

 そして、みんなが仲間になった。
 これは、とても嬉しい事だ。
 本当に嬉しい事。
 だが俺は、約束を破った。

 桜からの不可解な電話の後の、ネコさんからの電話。
 あんなにも俺の心配をしてくれたイリヤとの約束を、俺は破ったのだ。
 キャスターからも、見捨てられた気がする。
 そして、ライダーに襲われた。
 それでも美綴を助けられたのなら、後悔はない。
 と言いたいところだが、結局は俺がいようといまいと関係なかった気がするので、やっぱり俺は後悔している。
 俺さえしっかりしていれば、何も問題なかったのだ。
 美綴だって、あんな目に合わなくて済んだのだ。
 昨日の藤ねえだって、そうだ。
 結局、俺は、無力だ。
 誰一人、守れ……

「う……」

 果てしなく落ち込みかけた時、背中から声が上がった。
 どうやら、背負った美綴が気付いたようだ。

「美綴、気が付いたのか?」
「うぅ……ぅあ……ヒィッ!?」

 気付いた途端、美綴が暴れ始める。
 転落した恐怖を思い出したのだろう。
 無理もない。

「美綴、落ち着け! もう大丈夫だ!」
「ヒァッ! アァッ……あ、あれ? ここは……」
「俺の家の近くだ」
「あれ、衛宮……あたし、何で…………あ」
「落ち着け、美綴!」
「あッ! ぅあぁ――――ッ!!」
「アイツはもういない! もう大丈夫なんだ!」

 懸命に声を掛けるが、美綴は俺の言葉など聞こえていない。
 「いやだ」とか「死にたくない」とか涙混じりの悲鳴を上げながら再び背中で暴れ始め、後頭部に肘を入れられてしまった。
 思わぬ一撃を喰らいつい背負った手を離し美綴を地面に落としてしまったが、それでも彼女は喚き続ける。
 いくら気丈とはいえ、美綴は女の子。
 魔術師でもない彼女があんな目に合えば、恐怖で取り乱しても何の不思議もない。
 俺は美綴の両肩を掴み、正面から怒鳴るように名前を呼び掛けた。

「美綴ッ!!」
「……あ」

 俺の言葉に、美綴の動きが止まる。
 彼女は少しの間、呆けていた。
 目の焦点が、ようやく俺と合う。
 すると、彼女は俺に抱き付いて来た。
 力の限り抱きついて来た。
 身体が恐怖で震えている。

「あ……あ……あたし……あたし……」
「落ち着け。もう大丈夫だ。もう大丈夫なんだ」

 嗚咽を漏らす美綴を力いっぱい抱き締め、俺は彼女に言い聞かせるように大丈夫と言い続けた。
 彼女の爪が背中に喰い込む。
 皮膚が破られ血が滲む。
 だが、それがどうしたというのだろう。
 美綴は、もっとイタイのだから。
 随分と長い間、彼女は俺の腕の中で暴れていた。
 そして力尽きたのか、ようやく暴れなくなった。
 それでも俺は、美綴を抱き締めていた。
 美綴も、俺を抱き締めていた。
 暫くの間、そうしていた。

 俺の手の中で震える彼女は、とても小さかった。

 美綴が落ち着いてから少しした後、彼女はぶつぶつと何かを呟き始めた。
 何やら、悔しがっているようだ。

「畜生……」
「……」
「畜生ッ!」
「……」
「何だったんだよ……!」
「……」
「何だったんだよ、アレはあッ!!」

 美綴の疑問に、俺は素直に答えた。
 答える事で、美綴が落ち着くと思ったからだ。
 何より彼女は、既に巻き込まれた。
 ならば、答えない訳にはいかない。
 だから俺は説明した。
 魔術という存在を。
 自分がそれを使える事を。
 サーヴァントという存在を。
 聖杯戦争という殺し合いを。





「……何だよ、それ」
「……」
「何々だよ、それッ!」

 血走った目を士郎に向けながら、憎しみの声で綾子が叫ぶ。
 叫ばずには、士郎に当たらずにはいられない。
 そうしなければ、綾子は自分がどうにかなってしまいそうだった。

「落ち着け、落ち着くんだ!」

 懸命に綾子を落ち着かせようとする士郎だが、言葉で落ち着けば世の中苦労はなく、綾子の錯乱は治まらない。
 一体どうすれば綾子は落ち着いてくれるのか。
 どうすれば綾子は立ち直ってくれるのか。
 そもそも彼女は立ち直れるのか。
 士郎には分からなかった。

 と、その時。

 地響きがした――――と思って戴きたい。
 地響きといっても地殻変動の(たぐい)のそれではない。
 少しずつ、だが確実に近付く、どどど、と(はら)に響く音。
 所謂これは(あしおと)なのである。
 たかが(あしおと)で地響きとは大袈裟なことを――――と、お考えの向きもあるやもしれぬが、これは決して誇張した表現ではない。

「しーろーお――――ッ!」

 アスファルトにもかかわらず、土煙を上げ(ているように見え)る程のものなのだから。

「しーーろーーお――――ッ!!」

 怒り心頭といった雄叫びと共に向かってくるそれは、

「しぃ――――ろぉ――――おぉ――――ッ!!!」

 紛れもなく大河であった。
 それに気付いた士郎は、慌てて綾子から離れる。
 気まずい云々のそれではない。
 早く離れなければ、綾子を巻き込んでしまうからだ。
 自分がこれから何をどうされるかなど、既に分かり切った事なのだから。

「お――――りゃあ――――ッ!!!!」

 鈍く潰れる音がした――――と思って戴きたい。
 気合一閃の(のち)間髪(かんはつ)入れずに轟いた、ぐしゃり、と肝を冷やす音。
 会心であり痛恨であり渾身である大河の一撃は、見事士郎の顔面に炸裂した。
 鼻血を撒き散らしながら、ぶっ飛ぶ士郎。
 その姿に、というか
この展開に、綾子はついつい呆気に取られた。
 人が殴られ宙を舞う姿など、初めて見たのだ。
 しかも鼻血をきらきらと良い感じに振り撒きながら。
 彼女が呆然とするのも当然と言えよう。
 大河は腕を天に突き上げ「獲ったど――――ッ!」と雄叫びを上げている。

「お、おい、衛宮……大丈夫か?」

 呆けていた綾子が気を取り直し、士郎におずおずと近寄る。
 人が宙を舞い、アスファルトにずざざと突っ込んだのだ。
 さすがに心配になった。

「え、衛宮! お前、鼻血が凄い……って鼻ッ! 鼻曲がってるッ! 折れてる! 折れてるよ、それッ!?」

 士郎の顔面は真っ赤に染まっていた。
 鼻もひん曲がっていた。
 鼻血がダラダラ止まらなかった。

「や、やり過ぎ! これ、やり過ぎ、藤村先生ッ!!?」
「このくらい、当然です!」

 フンッと、鼻息も荒く腰に手を当て仁王立ちする大河。
 イリヤとの約束を破り、昼寝から起きた自分を心配させ、フラフラと出掛けた士郎である。
 挙句に綾子と路上で抱き合っていたのだから、この程度のお仕置きは大河にして見れば当然だった。
 自分はのほほんと昼寝をしていたが、それはそれ。
 藤村大河、二十五歳独身彼氏暦無し。
 彼女は心に棚を持つ女である。

「そんな訳で、もう一丁ッ!」
「これ以上はマズイですって! マジ、マズイですってェ!!」
「離して! 離して、美綴さんッ!!」

 殿中で御座ると言わんばかりに大河を羽交い絞めする綾子。
 大河は構わず暴れている。
 士郎はドクドク鼻血を流し続けている。
 ちなみに鼻は見事なまでに折れ曲がっている。
 もう、ぐだぐだであった。
 だがこの騒ぎのお陰で綾子は少しの間だけ死の恐怖を忘れる事が出来た。
 とすれば、これも所謂一つのショック療法と言えるのであろうか。



 いいえ、言えません。



続く
2008/11/23
By いんちょ


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