天平の<(いらか)>

井上靖 著
新潮文庫


 日本では奈良時代、中国では唐の時代ですが、日本から海を渡った大勢の留学僧たちがいました。海を渡ることでさえも命がけですから、修行を修めて無事に帰国することは難しい時代でした。志半ばで潰えてしまう者、途中で挫折してしまう者、大陸で流浪の旅に果ててしまう者など、多くの若者がその初志を貫徹できずに生涯を終えていました。
 この頃、唐の高僧鑑真の来日という大事件がありました。渡日しようとして何度も失敗し、最後には失明しながらも、鑑真は日本に仏教を伝えるという目的を果たします。その感動的な事績の裏には、留学僧たちの活躍と苦労とがありました。

 聖武天皇の天平四年(西暦732年)八月、第九次遣唐使発遣<(はっけん)>が決まり、大使と副使・その他の官はすぐに決まったのですが、遣唐使派遣の中で最も重要な意味をなす留学生・留学僧が決まるのは翌年に持ち越されてしまいました。
 大安寺の普照<(ふしょう)>、興福寺の栄叡<(ようえい)>の二人に留学僧として渡唐する話が持ち上がったのは二月の初めでした。栄叡は「よし行ってやる」といった不遜とも取れるような態度で応諾しましたが、普照は「一体唐へ渡って何を学んだらいいのか」と訊ねました。この二人はこの一件でわかるように、全く異なった型の秀才でした。
 二人にこのことを告げたのは、当時仏教界で最も勢力を持っているといわれていた元興寺の僧隆尊<(りゅうそん)>でした。隆尊がいうには、日本ではまだ戒律が<(そな)>わっていない。適当な伝戒の師を<(しょう)>じて、日本に戒律を施行したいと思っている。しかし、<()>ぶなら学徳すぐれた人物を招ばなければならないし、そうした人物に渡日を承諾させるのは容易なことではあるまい、十五、六年の歳月があれば二人の力を合わせれば果たせるだろう。これは重大な使命です。栄叡はすぐにすっかり乗り気になりますが、普照の方は戒師を招ぶことより十五、六年の間に自分が学び得る教典の量の方が重要に思えるのでした。

 遣唐使は五月、4艘の船で出発します。特に海が荒れているわけでもないのに船員を除いた殆ど全部の乗員が皆ひどい船酔いに襲われます。その後、ひどい暴風雨に出会い、結局蘇州に到着したのは八月でした。4艘とも同じく八月前後に漂着することができました。
 一行は陸路、洛陽に向かいます。唐の都は長安でしたが、この年玄宗帝が洛陽にいたために朝廷は洛陽にあったのです。遣唐使一行は目的地が都長安でないことで失望します。なんといっても都長安での華やかな行事の晴れの舞台に立ちたいという思いがあったのです。

 栄叡・普照以外に戒融・玄朗の2名が留学僧として遣唐使に伴って唐に渡りましたが、戒融は洛陽から出奔してしまいます。「この国には何かがある。この広い国を<()>巡っているうちにその何かを見つけ出すだろう。歩いてみなければ判らないことだ。」といって托鉢姿で旅に出ました。
 洛陽には日本から来て30年になる景雲という僧がいました。景雲は遣唐使の帰国に伴って帰国するのですが「唐に30年いたがなにも得るものはなかった」といいます。景雲と同じくらいの期間唐にいた日本人は他に業行がいました。彼は最初自分で勉強しようと思ったのですが、何年か後いくら勉強しても大したことがないということが判り、その後はひたすら写経を続けているのでした。日本に一字の間違いもない教典を持ち帰るのが使命だと信じてひたすら写経していました。写経が終わればすぐにでも持ち帰り帰国するつもりでした。彼の写した教典は自分の命に替えても持ち帰るという信念を持っていました。
 栄叡、普照、玄朗は高僧鑑真に伝戒の師僧を紹介してもらうべく揚州に向かいます。揚州は長安、洛陽に次ぐ大都会で、鑑真は大明寺にいました。三十数人の弟子を背後に控えさせて鑑真は栄叡たちと向かいあいます。栄叡は日本が伝戒の師僧を求めることに、いかに熱心かということを説きます。
 鑑真は「日本からの要請に応えて、たれか渡って戒法を伝える者はないか」と弟子たちに問います。暫くして祥彦<(しょうげん)>という僧が日本に渡ることの難しさを言いますが、鑑真は「法のためである。たとえ渺漫<(びょうまん)>たる滄海<(そうかい)>が隔てていようと生命を惜しむべきではあるまい。お前たちが行かないなら私が行くことにしよう」といって、鑑真と鑑真に伴う十七人の高弟の渡日が決まりました。

 渡日することは決まりましたが、素行収まらず学行も乏しいといわれていた高麗僧如海が渡航から外されると思い、日本僧たちが海賊の一味だとお上に訴えたために捕らわれてしまったのです。長い取り調べの後に釈放されたものの、日本僧のみ帰国させることになり鑑真らの渡日計画は頓挫してしまいました。この如海という人物、鞭打たれて還俗させられるのですが、人間くさくて興味をおぼえます。
 鑑真は失敗したものの、決心は少しも変わっていませんでした。玄朗や業行という日本僧はじめ何人かの脱落者は出たものの、着々と準備を進めその年の12月には再び渡日船を出すことにしました。しかし、途中嵐に遭い岩礁の上に座礁してしまいます。飢餓と渇きに3日間苦しみますが、漁船に米と水をもらい、5日後に海上警備の官船に救助されます。
 その後、再度渡日を試みますが、南洋に流されてしまい海南島に漂着します。3度失敗し、危険な目に遭いますが鑑真の決心は変わりませんでした。3度目の失敗の後、鑑真は失明します。それでも日本に戒法を伝える為、遣唐使の帰国に伴って渡日を試みます。この頃、唐の国内に鑑真を日本に行かせることに反対の意見があり、密かに連れて行かなければなりませんでした。
 4艘で出発しましたが、日本にたどり着いたのは3艘だけでした。大使清河と阿倍仲麻呂の乗った船は安南の沿岸に漂着して、多くの者が土人に殺されたり病没し十余人の生存者のみが長安にたどり着きました。業行と彼の写した膨大な量の教典は行方しれずでした。

 正史である続日本紀には鑑真来朝のことを次のように書かれています。(解説より)

(天平宝寺七年)五月戊申<(ツチノエサル)>。大和上<(ワジャウ)>鑑真物化す。和上は揚州竜興寺の大徳なり。(中略)
天宝二<(さい)>、留学僧栄叡・業行等、和上に<(マウ)>して<(イハ)>く、仏法東流して本国に至る。<()>の教有りと<(イヘド)>も、人の伝授する無し。幸に願はくは、和上東遊して化を<(オコ)>せと。辞旨<(ジシ)>懇至<(コンシ)>にして、諮請<(シセイ)><()>まず、<(スナハ)>ち揚州に於て船を買ひて海に入る。<(シカ)>るに中途にして風に<(タダヨ)>ひ、船打ち破られぬ。和上一心に念仏し、人皆之<(ミナコレ)>に頼りて死を<(マヌガ)>る。七載に至りて、更に<(マタ)>渡海す。<(マタ)>風浪に遭いて、日南に漂着す。時に栄叡物故す。和上悲泣<(ヒキツ)>して失明す。勝宝四年、本国の使適々<(タマタマ)>唐に<(ヘイ)>す。業行乃ち説くに宿心を<(モツ)>てす。<(ツヒ)>に弟子廿四人と、副使大伴宿禰<(オオトモノスクネ)>古麻呂<(コマロ)>の船に寄乗して帰朝し、東大寺に於て安置供養<(クヤウ)>す。

 天平の甍

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