史記 世家

小川環樹・今鷹真・福島吉彦 訳
岩波文庫(全3巻)


 以前読んだ「史記 列伝」はちょっと手強かったものの、結構面白いものでした。同じ岩波文庫で「世家」が出版されていることがわかりましたが、もはや絶版になっているようでした。しかし、近所の図書館にあることがわかり、借りてきて読むことができました。この文庫本のシリーズは訳本で、しかも注釈がたくさん書かれているので読みやすいと思います。
 史記は「紀伝体」で書かれた最初のものですが、主なパートとしては帝王の事跡や国家の大事を叙述した「本紀」12巻、諸侯など世襲の家柄のことを書いた「世家」30巻、人臣の伝記や諸外国の事を列ね記した「列伝」70巻から成っています。(他に表10巻、書8巻があります)

 本「列伝」はすべて諸侯のことを書いたものではありません。最初の16巻は戦国時代までの諸侯のことを書いたものですが、その次には孔子のことを書いています。孔子は魯の宰相を務めましたが、諸侯ではありません。その次には陳渉が登場します。彼は王となったので諸侯といってもいいかもしれませんが、一代で滅んでしまいました。孔子は儒教の始祖ですから、特別扱いするのはなんとなくわかりますが、平民であった陳渉がなぜ列伝でなく世家に書かれているのか興味深いところです。秦王朝を滅ぼすに到る反乱を最初に起こした人物だから特別扱いなのかもしれません。陳渉のあとには漢王朝の諸侯(王)のことが書かれていますが、こちらもなぜ列伝でなく世家なのか、???です。

太伯<(たいはく)>世家 第一

太伯は季歴に譲り、江南の蛮地(呉)におもむいた。そのため[周の]文王・武王は興隆し、古公(太伯や季歴の父、文王の祖父)の徳業は顕われた。闔廬<(こうりょ)>は[呉王の]僚を<(しい)>し[て位につき]、楚を服従させた。夫差<(ふさ)>は斉に勝ち、伍子胥<(ごししょ)>[の遺体]を皮袋に包んで長江に流し、伯嚭<(はくひ)>を信用して越に親しみ、呉の国はまったく滅びさった。太伯がよく譲ったことを讃え、呉世家第一を作る――太史公自序
斉太公世家 第二
申や呂の国は失われ、師尚父<(ししょうほ)>太公望呂尚)はおちぶれたが、けっきょく西伯(周の文王)に身を寄せ、[周の]文王と武王から師と仰がれた。功業は群臣の第一で、計謀を人知れずめぐらし、真白な髪が黄色になる老年に、営丘<(えいきゅう)>の地に封ぜられた。柯の町での誓約は鳴り響いた。田氏(田常)と闞氏(監止)が君寵を争ったことがもとで、姜氏(斉の公室)は崩れ滅亡した。師尚父の計謀を讃え、斉太公世家第二を作る――太史公自序
魯周公世家 第三
当時従う者もあり違う者もあったが、周公は天下を安定させ、文の徳を興し広めて(礼楽を興し広めて)、天下は和合し、成王を補佐して、諸侯は周を宗主と仰いだ。隠公と桓公との世の事は、いったいどうしたことであろうか。三桓(魯の卿である三家)が勢力を張ると、魯の公室は衰えた。周公旦金縢<(きんとう)>(金の帯で封した箱)に納めた祈願の文を讃え、周公世家第三を作る――太史公自序
燕召公世家 第四
[周の]武王は[殷の]紂王に勝った後、天下がまだ整い和合しないうちに崩じた。[周の]成王(武王の子)はまだ幼く、管叔と蔡叔(いずれも武王の子)は[周公が成王の位を奪うのではないかと]疑い、淮夷(淮水のほとりのえびす)は[管叔や蔡叔と共に周に]叛いた。そこで召公は先に立って、徳をもって周の王室を安泰にし、東方の地を平穏にした。燕王の噲が[臣下に]位を譲ろうとしたことから、[燕国に]混乱が沸き起こった。[召公を讃えた]「甘棠<(かんとう)>」の詩を嘉して、燕世家第四を作る――太史公自序
管蔡世家 第五
管叔と蔡叔は武庚(殷の紂王の子)を補佐して、古き商(殷)の跡を安定せんとした。周公旦が政治をとるに至って、二叔(管叔と蔡叔)は服従せず、そのため[周公旦は]鮮(管叔の名)を弑し度(蔡叔の名)を放逐し、周公旦は誓いを立て「て、周の王室に尽くし]た。太姒(周の文王の妃)に十人の息子があって、周の王室は天下の中心たる勢威を築き上げた。蔡仲(蔡叔の子)が過ちを正したことを嘉し、管蔡世家第五を作る――太史公自序
陳・杞世家 第六
聖天子の後裔は絶ゆることなく[周の世に封ぜられ]、や禹は喜び給うた。大いにして明らかなる徳は、その後裔も余恵をこうむるのであって、百世にわたって祭祀をうけることもある。かの周における陳(舜の子孫の国)や杞(禹の子孫の国)はそうした後裔であって、楚がこれらの国を滅ぼしはしたけれども、斉では田氏(陳の公室の子孫)がやがて興隆した。舜はなんとすぐれた徳のある人であろうか。陳杞世家第六を作る――太史公自序
衛康叔世家 第七
殷の余民を収めて、康叔封ははじめて[衛に]領地を有した。[周公は康叔に]くりかえし商(殷)の衰滅の故を説き、「酒誥<(しゅこう)>」と「梓材<(しざい)>」とを以て戒めた。子朔(宣公の子。後年の恵公)が生まれるに至って、衛の国運は傾いて安らかではなくなった。南子(霊公の夫人)が蒯聵<(かいかい)>(霊公の太子。後の荘公)を憎んだことから、子(出公)と父(荘公蒯聵)との即位の順序が逆になった。周の徳が衰え、戦国の大国が強大になると、衛はしだいに弱小となり、君角の時になってついに滅んだ。[周公の作った]かの「康誥」[や「酒誥」や「梓材」]を嘉し、衛世家第七を作る――太史公自序
宋微子世家 第八
あぁ箕子よ、あぁ箕子よ。その正しい言葉は用いられずに、かえって奴隷にまで身を落としたのか。武庚(殷の紂王の子)が死んだ後、周は微子(紂王の異腹の子)を[宋に]封じた。[宋の]襄公は泓水<(おうすい)>のほとりで[楚の成王と戦い、礼を守って]傷ついたが、君子は[楚の成王と襄公の]どちらを褒めるであろうか。景公は謙虚の美徳を具えていたため、熒惑<(けいわく)>(火星)さえも位置を退いた。剔成<(てきせい)>は暴虐であったため、宋はついに滅ぶに到った。微子が太師(楽官)たちに[その進退について]相談したことを嘉し、宋世家第八を作る――太史公自序
晋世家 第九
[周の]武王が崩じた後、叔虞<(しゅくぐ)>(武王の子、成王の弟)は唐に封ぜられた。穆公の二人の子の名づけ方を君子は非難したが、やはり叔虞の直系の子孫は[曲沃の]武公によって滅ぼされた。驪姫<(りき)>が[献公に]寵愛されたことから、晋の国乱は五代(献公・奚斉・卓子・恵公・懐公)にわたって続いた。重耳(後の文公)は失意の境遇にあったが、やがては覇者にまでなった。六人の卿(知氏・范氏・中行氏・韓氏・魏氏・趙氏)が権力を握るようになって、晋国は衰亡するに至った。文公が[周の天子から覇者たることを認められて]珪瓉<(けいさん)>(玉の酒器)や秬鬯<(きょちょう)>(黒<(きび)>の酒)などを賜ったことを嘉して、晋世家第九を作る――太史公自序

楚世家 第十
[火の<(おさ)>を]<(つと)>めとすることは重黎<(ちょうれい)>にはじまり、呉回がそのあとを継いだ。殷のすえ、粥子<(いくし)>よりは系譜が明らかである。周[の成王]は熊繹<(ゆうえき)>を重く用いて[楚に封じ、それを]熊渠<(ゆうきょ)>が承けついだ。荘王は賢君であって、陳[を破ったが]国をかえし、鄭[に克っても、その君]伯を赦し、[宋の都を囲んだときには]華元のために兵を引いた。懐王が客死したことで、子蘭<(しらん)>屈原<(くつげん)><(つみ)>をきせた。[王が]<(へつら)>いをこのみ讒言を信じたため、楚の国は秦に併合されるようになる。荘王の信義をたたえて楚世家第十を作る――太史公自序
越王句践<(こうせん)>世家 第十一
少康の庶子は、南の海辺に遠ざけられ、身に<(いれず)>みし髪をふりみだし、黿鼉<(おおがめ)>にまじって住んだ。ひさしく封禺<(ほうぐ)>の山を守り、禹王の祭祀に奉仕していた。句践は彼(呉王闔廬<(こうりょ)>)に苦しめられたのち、始めて<(しょう)>(大夫種)と<(れい)>(范蠡)を重く用いた。句践が蛮族のうちより出てよくその徳をおさめ、強大な呉国を滅ぼして、周室の尊厳を大いにしたことをたたえて、ここに越王句践世家第十一を作る――太史公自序
鄭世家 第十二
[鄭の]桓公が東へ国を遷したのは、太史(伯)の意見を用いたのであった。周の領地を侵し[その収穫を奪っ]てからは、[周の]王室より非難をうけることになった。蔡仲が宋との盟約をかためたあと、鄭は久しく栄えなかったが、[家老となった]子産は仁愛の徳があり、家をついで賢人と称せられた。三晋(韓・魏・趙)の国々の侵略がしきりになって、鄭の国は韓に取られてしまうのだが、詞が周の恵王をもりたて都へ帰らせた功績を讃え、鄭世家第十二を作る――太史公自序
趙世家 第十三
そもそも名馬耳<(りょくじ)>によって、造父<(ぞうほ)>はその名を<(あらわ)>した。[彼の末裔]趙夙<(ちょうしゅく)>は[晋の]献公につかえ、[その孫]趙衰<(ちょうし)>は彼のひらいた<(いとぐち)>をついだ。[衰は]文公を<(たす)>けて[周の]王室の尊厳を増し、<(つい)>には晋の宰相となった。趙襄子は辱めに苦しんだのち、ようやく智伯を<(とりこ)>にした。主父<(しゅほ)>武霊王)は生きながら取りこめられて、雀の卵を探り取らせたすえに、餓えて死んだ。[最後の]王遷は淫乱の君で、名将(李牧)をしりぞけた[ため、亡びた]。趙鞅<(ちょうおう)>(趙簡子)が周を乱した者を討伐した功績を讃えて、趙世家第十三を作る――太史公自序
魏世家 第十四
畢万<(ひつまん)>が魏の爵位をうけたことの意味は、卜者<(ぼくしゃ)>が理解していた。魏絳<(ぎこう)>が楊干(晋の悼公の弟)[の御者]を誅し[て楊干を辱しめた]時から、戎(西方の異民族)や狄(北方の異民族)が[晋と]和親した。文侯は正義を慕い、子夏(孔子の弟子卜商)を師と仰いだ。恵王は尊大だったので、斉や秦が魏を攻めた。信陵君を疑ってからは、諸侯は魏を助けなかった。かくして大梁(魏の都)は滅ぼされ、魏王仮は召使の地位に落ちた。魏武子が晋の文公を輔佐して覇者の道を伸長させたことを嘉し、魏世家第十四を作る――太史公自序
韓世家 第十五
韓厥<(かんけつ)>の陰徳のおかげで、趙武が興起することができ、絶えすたれた家を継がせ存立させたその徳を、晋の人びとは仰いだ。韓の昭侯のめざましい功は、宰相の申不害の働きの故である。韓王安が韓非を疑い信じなかったので、秦の軍が韓を襲った。韓厥が晋公を輔佐したため、[趙武の孫の趙鞅によって]周の天子(敬王)の貢賦は正しくあるべき姿に戻されたことを嘉し、韓世家第十五を作る――太史公自序
田敬仲完世家 第十六
田完は危難をのがれ、[陳より]斉におもむいて[斉の国の]補佐となった。五代のあいだ[代々]陰徳をほどこし、斉の人びとはそれをたたえて歌った。成子は政をとりしきった[宰相であり]、田和(太公)は諸侯の列にのぼった。[最後の王の]王建は心の動揺がもとで、やがては共へおしこめられるはめになる。威王と宣王が濁れる余をはらいきよめる力があって、なおひとり周を宗主とあがめたことは、ほむべきであった。ゆえに田敬仲完世家第十六を作る――太史公自序
孔子世家 第十七
周の王室が衰えてのちは、諸侯の国々は<(ほしいまま)>な行いをした。仲尼<(ちゅうじ)>(孔子)は礼と音楽の紀律が崩壊したことを<(かな)>しみ、経書の学問を修めて、王者の道をひろくし、乱れたる世を<(すく)>い、正しき世に<(かえ)>そうとした。[その心を]文章に<(あら)>わして、天下のために法則をさだめ、六芸<(りくげい)>(六つの経書)をもって後の世までの統紀<(おおづな)>とした。孔子世家を作る――太史公自序
十二諸侯年表 第二
幽王と脂、よりのちは、周の王室は衰微して、諸侯が政治をひとりじめにした。[その史実は]『春秋』にもしるされていないことがあり、系譜のたぐいでも[記載は]簡略すぎる。五覇[の国々]はつぎつぎに栄えては衰えた。周代における[国々の]いずれが先に立ち、いずれがあとになったかの大勢を見やすくするために、十二諸侯年表 第二を作る――太史公自序

陳渉世家 第十八
<(けつ)><(ちゅう)>が道にはずれた行いをして、<(とう)>・武がとってかわった。周の制度が衰微して、『春秋』が作られた。秦がその政治に失敗して、陳渉が兵をあげた。諸侯は反乱をおこし、風のごとく起ちあがり雲のごとくわきたち、けっきょく秦一族を滅ぼした。天下の事は陳渉の反乱がきっかけをなした。陳渉世家第十八を作る――太史公自序
外戚世家 第十九
成皋<(せいこう)><(うてな)>[での恩愛]が、<(はく)>氏の基礎となった。[彼女は]すすまぬ心を曲げて代に赴いたが、それが<(とう)>氏一族の出世へと繋った。栗姫<(りつき)>が高貴をたのんだため[失脚し]、王氏は皇后になりおおせた。陳后はあまりにも高慢に過ぎ、けっきょく衛子夫が后に立てられることになった。彼女らの婦徳があのようであったことを評価して、外戚世家第十九を作る――太史公自序
楚元王世家 第二十
漢は謀略によって、[韓]信を陳で捕えると、越・荊(楚)の剽悍な気風を考え、弟の交を封じて楚王とした。かくて彭城に都を置き、淮水・泗水の流域に強力な地盤をもち、漢の親藩となった。[交の孫]<(ぼう)>は悪事に溺れ[反乱ののちに殺され]たが、[交の子]礼が復び国を継承した。游(交のあざな)が股肱<(てあし)>として高祖を輔佐したことをたたえて、楚元王世家第二十を作る――太史公自序
荊燕世家 第二十一
高祖が[漢中より]軍を出動したとき、劉賈<(りゅうか)>はこれに参加した。[黥布反乱のとき]布に襲撃され、その領土荊・呉を失った。営陵(営陵公劉沢)は呂后の心をゆさぶり、まんまと琅邪の王となった。[斉王肥の臣]祝午に誘われて斉を信頼し、[斉へ]出かけたが、国へ帰れなかった。かくて西に向かい関中に入ったが、孝文帝の即位にあい、燕の王として位に復することができた。天下がまだ安定を見ないときに、劉賈と劉沢は皇族として漢の藩輔<(まもり)>となった。荊燕世家第二十一を作る――太史公自序
斉悼恵王世家 第二十二
天下はすでに平定されたが、皇族は数少なかった。[そのなかで]悼恵王は既に成年に達していて、東国の地の鎮撫にあたった。[その子の]哀王は独断で兵をあげ、呂氏一族に対する怒りを示した。[哀王の母方のおじ]駟鈞が道理をわきまえぬ乱暴者であったため、都では[哀王の天子昇格を]認めなかった。[悼恵王の曾孫]脂、は近親相姦を犯し、主父偃によって不幸な最期を遂げることになった。[悼恵王]肥が股肱<(てあし)>として王室を輔佐したことをたたえて、斉悼恵王世家第二十二を作る――太史公自序
蕭相国世家 第二十三
楚の人(項羽の軍)がわが軍(劉邦の軍)を滎陽<(けいよう)>に包囲し、三年間対峙したとき、蕭何は山西(関中)の地を鎮撫し、[戸口を]計算して軍兵を送り出し、糧食を補給して絶やさず、人民に漢を愛させ、楚に味方する気を失わせた。蕭相国世家第二十三を作る――太史公自序
曹相国世家 第二十四
韓信と共に魏を平定し、趙を撃破し、斉を攻略し、かくて楚軍(項羽)の力を弱めた。[蕭]何相国の後を継いだが、政策を変更することなく、庶民はおかげで平安を得た。参が功績・才能をほこらなかったことをたたえて曹相国世家第二十四を作る――太史公自序
留侯世家 第二十五
計りごとを本営の中でめぐらし、勝利を無形のうちに決定する。子房(張良)は敵に勝つ策略を立てたが、智者としての名声もなく、武勇による勲功もなく、困難な事を容易なことから考えていき、大きな事を小さな事から行っていった。留侯世家第二十五を作る――太史公自序
陳丞相世家 第二十六
六つの奇策が採用されたあと、諸侯は漢に服従し来朝した。呂氏[打倒]の事件に、陳平は首謀者であった。けっきょく[漢の]宗廟を安泰にし、社稷を安定させた。陳丞相世家第二十六を作る――太史公自序
絳侯周勃世家 第二十七
呂氏一族がのさばり、皇帝を弱めようと謀ったとき、勃は常道にそむきながらも適宜な処置をとった。呉・楚の兵乱のとき、亜夫(周勃の子)は昌邑に駐屯し、斉・趙の動きを制し、梁を捨てる策をとった。絳侯(周勃)世家第二十七を作る――太史公自序
梁孝王世家 第二十八
[呉・楚など]七か国が反乱を起こしたとき、藩屏<(かきね)>となって都を守るべき一族の国のうち、ただ梁だけが防御にあたった。しかし[母<(とう)>太后の]寵愛をたのみ功績をほこり、もう少しで災難におちいるところであった。彼のよく呉・楚に抵抗したことをたたえて、梁孝王世家第二十八を作る――太史公自序
五宗世家 第二十九
五人の母から生まれた兄弟が王に封じられたのち、皇族は睦みあい、諸侯は大も小も藩屏<(かきね)>となり、それぞれ本分にかない、僭上の事柄は次第に減少した。五宗世家第二十九を作る――太史公自序
三王世家 第三十
[武帝の]三子が王に封じられたときの、文章表現は観るべき価値がある。三王世家第三十を作る――太史公自序

     

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