史記 列伝

小川環樹・今鷹真・福島吉彦 訳
岩波文庫(全5巻)


 以前からこの書には憧れていまして、いつか読みたいと思っていました。なかなか手頃な本が見つからなかったのですが、たまたま書店で見つけたのがこの文庫本でした。
 『史記』列伝の部は全70巻あります。この最後に「太史公自序」という『史記』全体の目次があり、そこに各篇の「はしがき」に相当する部分があります。ここでは、各列伝に登場する人を紹介することにします。『史記』は中国の正史で、こういうとなんとなく堅苦しいような感じがしますが、その内容は小説といってもいいほどおもしろいものでした。私の敬愛する宮城谷昌光さんは『史記の風景』という本で『史記』を紹介されています。
 本書は訳本であり、しかも豊富に注記がありますので読みやすいです。これで興味を持たれた方、もともと古代中国にはまっておられる方、本書にチャレンジしてみてはいかがでしょうか?

伯夷<(はくい)>列伝 第一

末の世のひとびとはわれ勝ちに利益を争うなかで、ただこの二人のみが正義へ向かってふりかえらず、国を[弟に]ゆずり、飢え死にした。天下のひとは、これをほめたたえる。だから伯夷列伝第一を作る――太史公自序
<(かん)><(あん)>列伝 第二
晏子は倹約をむねとした。夷吾(管仲)は豪奢であった。斉の桓公は[管仲のはたらきで]覇者となったし、景公は[晏子のたすけで]国が治まった。だから管・晏列伝第二を作る――太史公自序
老子<(ろうし)>韓非子<(かんぴし)>列伝 第三
李耳は[君主が]無為であれば[民は]おのずから化せられ、清潔平静であれば[民は]おのずから正しくなると考えた。韓非は事のなりゆきを予見し、勢いと道理にしたがうことを説いた。老子・韓非列伝第三を作る――太史公自序
司馬穣苴<(しばじょうしょ)>列伝 第四
いにしえの王者のときより、司馬の兵法はあった。穣苴は、それをおしひろげ明白にしたひとである。ゆえに列伝第四を作る――太史公自序
孫子<(そんし)>呉起<(ごき)>列伝 第五
信義をまもり廉潔で仁徳と武勇あるものでなければ、[かれらに]兵法を伝え剣術を論ずることはできない。それは「道」とぴったり合い、内では身体をきたえるによく、外では[事態の]変化に応じて処理できる[ような法だ]。君子はこれを「徳」にたぐえる。ゆえに孫子・呉起列伝第五を作る――太史公自序
伍子胥<(ごししょ)>列伝 第六
[楚の太子]建は讒言におち、[その禍いは]伍奢に及んだ。[奢の子の]尚は父のいいつけどおりにし[て死ん]だが、伍員はのがれて呉へいった。伍子胥列伝第六を作る――太史公自序
仲尼<(ちゅうじ)>弟子列伝 第七
孔子は文(文化と学問)を述べつたえ、弟子たちはその業(師から受けたもの)をさかんにし、みな[諸侯の]師あるいは傅(もり役)となって、仁をたっとび義をはげました。だから仲尼弟子列伝第七を作る――太史公自序

孔子の弟子ですぐれていたのは77人といわれています。
 徳行には顔淵(がんえん)、閔子騫(びんしけん)、冄伯牛(ぜんはくぎゅう)、仲弓
 政事には冄有(ぜんゆう)、季路(きろ)
 言語には宰我(さいが)、子貢(しこう)
 文学には子游(しゆう)、子夏(しか)
これら77人の伝記です。
商君<(しょうくん)>列伝 第八
商鞅は衛を去り秦におもむき、その[取るべき]みちを明白にして、孝公を覇者たらしめることができた。[秦は]のちの世までかれの[定めた]法を守った。だから商君列伝第八を作る――太史公自序
蘇秦<(そしん)>列伝 第九
天下のひとびとは連衡[の同盟]のため、秦が満足するときはあるまいとなやんでいた。しかるに蘇子(蘇秦)は[六国の]諸侯の存立をはかり、合従の盟約をむすんで、貪欲で強暴なもの(秦)をおさえることができた。ゆえに蘇秦列伝第九を作る――太史公自序
張儀<(ちょうぎ)>列伝 第十
六国が合従のよしみを結んだあとであったが、張儀はかれ[独特の]説を明白にのべ、ふたたび諸侯[の同盟]を解体させることに成功した。ゆえに張儀列伝第十を作る――太史公自序
樗里子<(ちょりし)>甘茂<(かんも)>列伝 第十一
秦が東方において強力な諸侯(韓や魏など)をうちしりぞけたのは、樗里子と甘茂の策略によってであった。ゆえに樗里子・甘茂列伝第十一を作る――太史公自序
穣侯<(じょうこう)>列伝 第十二
黄河[の中流のあたり]と[その向こうの]山地をとりこみ、大梁の都を包囲して、諸侯たちが手をちぢめ、秦につかえるようになったのは、魏冄の功であった。ゆえに穣侯列伝第十二を作る――太史公自序
白起<(はっき)>王翦<(おうせん)>列伝 第十三
南においては[楚の国の]鄢と郢を攻めおとし、北においては長平で敵をうちくだき、かくて[趙の都]邯鄲を包囲したのは、武安君(白起)がその軍のかしらであった。荊(楚)をやぶり趙を滅したのは、王翦の計りごとである。ゆえに白起・王翦列伝第十三を作る――太史公自序
孟子<(もうし)>荀卿<(じゅんけい)>列伝 第十四
儒家や墨家の残した古典をとり集め、礼と義の大づなを明らかにして、[魏の]惠王の利益をのぞむ端(いとぐち)を断ちきり、すぎ去った世々の興亡を説きつらねた。ゆえに孟子・荀卿列伝第十四を作る――太史公自序
孟嘗君<(もうしょうくん)>列伝 第十五
賓客や士をもてなすことがすきで、[天下の]士は薛(孟嘗君の領地)に集まって来、斉のために楚と魏[の攻撃]をふせいだ。ゆえに孟嘗君列伝第十五を作る――太史公自序
平原君<(へいげんくん)>虞卿<(ぐけい)>列伝 第十六
馮亭のことにつき論争したのは正しい道ではなかったが、楚へおもむいて[趙の都]邯鄲の包囲を解かせ、その主君にふたたび諸侯の列に入らせた。ゆえに平原君・虞卿列伝第十六を作る――太史公自序
魏公子<(ぎのこうし)>列伝 第十七
富貴でありながら貧賤のものにも謙り、賢明でありながら愚かなものにも頭をさげることを、実行できたのは信陵君だけであった。ゆえ魏公子列伝第十七を作る――太史公自序
春申君<(しゅんしんくん)>列伝 第十八
一身を主君にささげ、かくて強暴な秦から脱出し、弁舌の士をやって、南へむかい楚へ走ったのは、黄歇(こうけつ)の正義[を守った行動]であった。ゆえに春申君列伝第十八を作る――太史公自序

范雎<(はんしょ)>蔡沢<(さいたく)>列伝 第十九
魏斉からうけた屈辱をたえしのんで、強力な秦にあって信任と権威をかちえた。賢者をすすめ、自分の地位を他人に譲ることは、[范雎と蔡沢の]二人がよくなしえたところであった。ゆえに范雎・蔡沢列伝第十九を作る――太史公自序
楽毅<(がっき)>列伝 第二十
自ら立てた方策どおりを実行し、五か国の兵を連合して、弱い燕のために強力な斉に復讐し、[燕の]先君のうけた恥をすすいだ。ゆえに楽毅列伝第二十を作る――太史公自序
廉頗<(れんぱ)>藺相如<(りんしょうじょ)>列伝 第二十一
[藺相如が]強国の秦にあっては大いに気をはいたが、廉子(廉頗)に対しては身をかがめることができたのは、主君に忠実なためであり、二人とも諸侯のあいだで重きをなした。ゆえに廉頗・藺相如列伝第二十一を作る――太史公自序
田単<(でんたん)>列伝 第二十二
[斉の]湣王が臨淄[の都]を失って莒へにげたあと、田単ひとりが即墨をねじろとし、騎劫(ききょう)を敗走せしめ、かくて斉の社稷をながらえさせた。ゆえに田単列伝第二十二を作る――太史公自序
魯仲連<(ろちゅうれん)>鄒陽<(すうよう)>列伝 第二十三
人とちがった説をたてて、包囲された城の難をすくい、爵位や俸禄には目もくれず、きままな生活を楽しんだ。ゆえに魯仲連・鄒陽列伝第二十三を作る――太史公自序
屈原<(くつげん)>賈生<(かせい)>列伝 第二十四
すぐれた辞(ことば)をつづって[主君を]暗示的にいさめ、類比を述べて節義を争ったことは、「離騒」独自のものである。ゆえに屈原・賈生列伝第二十四を作る――太史公自序
呂不韋<(りょふい)>列伝 第二十五
子楚と親しみをむすび、諸侯の士の名ある者を、きそって秦に仕えるようにした[のは、呂不韋の功績である]。ゆえに呂不韋列伝第二十五を作る――太史公自序
刺客<(しかく)>列伝 第二十六
曹沫(そうかい)が匕首(あいくち)をとって、魯の国はその領土をとりもどした。斉もその約束にそむかず信義をみせた。予譲は忠義をまもり、二心をもたなかった。ゆえに刺客列伝第二十六を作る――太史公自序

春秋・戦国時代に義侠をもって刺客となった曹沫、専諸(せんしょ)、予譲(よじょう)、聶政(しょうせい)、その姉の栄(えい)、荊軻(けいか)、高漸離(こうぜんり)の伝記を記しています。
李斯<(りし)>列伝 第二十七
明らかな見取り図をつくり、時勢を察して秦をおしひろめ、かくて統一の大志がはたされた。その企画の先頭にたったのは李斯である。ゆえに李斯列伝第二十七を作る――太史公自序
蒙恬<(もうてん)>列伝 第二十八
秦のために領土をいよいよ広げ、北では匈奴を追いはらい黄河をもってとりでとし、山々を[四方の]固めとして、喩中(ゆちゅう)の地を開いた。ゆえに蒙恬列伝第二十八を作る――太史公自序
張耳<(ちょうじ)>陳余<(ちんよ)>列伝 第二十九
[この二人は]趙をおしふせ、常山[の通路]をふさいで、さらに河内(かだい)へ手をひろげた。楚[の力]を弱めて、漢王[高祖]の信義を天下に明らかにした。ゆえに張耳・陳余列伝第二十九を作る――太史公自序
魏豹<(ぎほう)>彭越<(ほうえつ)>列伝 第三十
魏豹は西河(せいが)・上党から兵を進め、[高祖に]従って[項羽の根拠地]彭城までたどりついた。彭越は梁(魏)をあらしまわって項羽を苦しめた。ゆえに魏豹と彭越の列伝第三十を作る――太史公自序
黥布<(げいふ)>列伝 第三十一
[黥布は]淮南の地をあげて、楚(項羽)にそむき漢(高祖)についた。漢はかれの力で[楚の]大司馬周殷(しゅういん)を味方とし、最後に項羽を垓下(がいか)でうち破ることができた。ゆえに黥布列伝第三十一を作る――太史公自序
六国<(りっこく)>年表
『春秋』にしるされた時代よりのちになると、諸侯の陪臣がその国の権力をにぎり、諸侯のなかの強力な国は王と称するようになった。そして秦が最後には中原の国々を併呑し、それらの領地をなくしてしまい、皇帝の称号をわがものとした。ゆえに六国年表第三を作る――太史公自序

淮陰侯<(わいいんこう)>列伝 第三十二
楚の軍が京(けい)と索(さく)の附近で、わが漢王を追いつめたとき、韓信は趙と魏を攻め落とし、燕と斉を平らげた。これで漢は天下の三分の二を領有し、そして項籍(項羽)を滅亡させるもとになった。ゆえに淮陰侯(韓信)列伝第三十二を作る――太史公自序
韓信<(かんしん)>盧綰<(ろわん)>列伝 第三十三
楚と漢とが鞏(きょう)県と洛陽の附近で対峙しているとき、韓王信は潁川(えいせん)の地を制圧し、盧綰は項籍の兵糧[の補給]を絶った。ゆえに韓信・盧綰列伝第三十三を作る――太史公自序
田儋<(でんたん)>列伝 第三十四
諸侯が項王(項羽)にそむいたとき、斉が城陽で項羽にはむかったからこそ、漢はその隙をついて[項羽の都]彭城に入城できた。ゆえに田儋列伝第三十四を作る――太史公自序

田儋と従兄弟である田栄、田栄の弟の田横の伝記です。
宮城谷昌光さんの『香乱記』は、田横を主人公にした作品です。ここにお出での方にはこの作品をお読みになった方も多いと思います。参考のために本伝記の最後の部分を紹介しましょう。原書の雰囲気をお楽しみ下さい。
 韓信は竜且を殺したあと、そのまま曹参に進軍させ、田既を膠東でうち破り殺害し、灌嬰に斉の将軍田吸を千乗でうち破らせ、殺害させた。韓信はかくて斉を平定し、自分が斉の仮の王になりたいと申し出た。漢はその申し出を受けてかれを王にとりたてた。
 その一年余りのち、漢は項籍(項羽)を滅ぼした。漢王は皇帝の位につき、彭越を梁王とした。[彭越のもとにいた]田横は処刑をおそれて、その一党五百余人といっしょに船に乗り、海中の島に住んだ。高祖はそれを聞くと、田横の兄弟がもともと斉を平定したのであり、斉出身のすぐれた人びとが彼についているいるから、いま海中にいるうちに始末しなければ、あとになって反乱を起こす心配がある、と考えた。そこで使者をやって田横の罪をゆるし、都に召しよせた。田横はそれをことわって、「わたくしは陛下の使者である酈生(酈食其)を煮殺しました。いま聞けば、かれの弟の酈商は漢の将軍となり、なかなかの男の由です。わたくしはおそれおののき、詔をお受けする勇気はございません。どうか平民のまま海中の島に住まわせてくださいませ」と述べた。
 使者が帰還して報告すると、高祖はすぐさま近衛隊長の酈商に勅命を下した、「斉の田横がまもなく到着する。お前の部下のうち騒動を起こすものがあれば、一族みなごろしの刑を招くぞ」。それからまたも使者をやり天子の使者であることを示す節(はた)をもたせ、酈商に勅命を下した内容をいちいち詳しく告げさせ、「田横よ、招きに応ずれば、うまくいけば王となり、わるくても候となれるのだぞ。応じなければ、すぐにでも兵をこぞって処罰を加えるぞ」といわせた。
 田横はそこで、食客二人をつれ駅継ぎの馬車に乗り、雒陽(らくよう)まで来たが、そのてまえ三十里の尸郷(しきょう)にある駅馬車の休憩所までくると、田横は使者に「人臣が天子におめどおりする場合、みそぎをし髪も洗ってからでなければなりません」とことわりをいい、休息をとった。食客に向かっていうには、「わたしは、かつては漢王と同じく南面して予ととなえる身分だった。いま、漢王は天子であるのに対して、わたしはとらわれの亡命者として、北面してかれにつかえるのだ。その恥辱は実際ひどいものだ。それに、わしは人の兄を煮殺しながら、その弟と肩を並べて主君につかえることとなる。たとえかれが天子の勅命をはばかり、思いきってわしに何かしかけることがないとしても、わしの方で心に恥じることがないだろうか。それにまた、陛下がわしにあいたいと思われる理由は、わしの顔つきをひと目でも見ようという、それだけのことであろう。ちょうど、陛下は洛陽におられる。いま、わしの首を斬って三十里の道のりを早駆けさせれば、容貌もまだくずれず、観察していただけるだろう」。かくて自分で首をかききり、食客にその首をもたせ、使者といっしょに早駆けでそれを高祖に献上させた。
 高祖は、「さてさて、平民から起き上がり、兄弟三人が代る代る王となったのは、いかにもさもあるべきことであった。立派な人間ではないか」といい、かれのために涙を流した。そしてその二人の食客を都尉に任命し、兵卒二千人を出して、王を葬る儀式で、田横を葬った。葬式が終わると、二人の食客は、その墳墓の近くに穴を掘り、どちらも自分で首をかききり、かれのあとを追った。高祖はそれを聞くと大変驚き、田横の食客はすべてすぐれた人間だと考え、「わしはまだ五百人、海中に残っていると聞いておるが」といい、使者をやってかれらを召しよせた。[かれらは洛陽に]到着して、田横が死んだと聞くと、やはりみな自殺した。このことで、田横の兄弟が、よく部下の心をつかんでいたことがわかる。

 太史公曰く、蒯通(かいつう)の謀略は実に恐るべきものであった。斉を混乱させ、淮陰侯(韓信)をつけあがらせて、そのはては、この二人(韓信と田横)を滅亡させてしまった。蒯通というひとは、諸国を離合集散に導く弁論術にたけ、戦国時代の権謀術数について述べた八十一篇の書物をあらわした。
 蒯通は斉の人の安期生と仲がよかった。安期生は項羽に意見をたてまつったことがあるが、項羽はその策をとりあげることができなかった。そののち、項羽はこの二人を大名にしようと思ったが、二人は最後まで受けることを承知せず、逃げ去った。
 田横は高い節義を持った人であり、食客はかれの節義をしたい、あとを追って死んだ。すばらしい人間ではないか。わたしはだから列伝にのせたのである。それにしても[かれらの中に]策略の上手なものがいなかったわけではないのに、[田横らの最後を]どうすることもできなかったのは、なぜであろうか。
<(はん)><(れき)><(とう)><(かん)>列伝 第三十五
城の後略と原野での戦いにてがらを立て、帰還して報告する点では、樊噲と酈商が能力を発揮した。[かれら四人は]馬にむちをいれ[戦場をかけまわ]るだけではなく、また[高祖を助けて]いっしょに危機を脱することもあった。ゆえに樊噲・酈商・滕公(夏侯嬰)・灌嬰列伝第三十五を作る――太史公自序
張丞相<(ちょうじょうしょう)>列伝 第三十六
漢が成立した当初、文物制度はまだ明確でなかった。張蒼は主計となって、度量衡を整理し、音律と暦を正した。ゆえに張丞相列伝第三十六を作る――太史公自序
酈生<(れきせい)>陸賈<(りくか)>列伝 第三十七
巧みな言葉で使命をはたし、盟約を定めて諸侯を味方とし、諸侯がみな漢と連合して、その擁護者と防衛者になるようにした。ゆえに酈生・陸列伝第三十七を作る――太史公自序
<()><(きん)>蒯成<(かいせい)>列伝 第三十八
秦と楚に対する争いの詳細を知ろうと思えば、だれよりも周緤(しゅうせつ)が、いつも高祖の供をして、諸侯を平定したことを知るべきである。ゆえに傅寛・靳歙(きんきゅう)・蒯成公(周緤)列伝第三十八を作る――太史公自序
劉敬<(りゅうけい)>叔孫通<(しゅくそんつう)>列伝 第三十九
[劉敬は]有力な豪族を移住させて、関中に都を建て、匈奴とは和親の協定を結んだ。[叔孫通は]宮廷の儀礼および宗廟の祭式をくわしく規定した。ゆえに劉敬・叔孫通列伝第三十九を作る――太史公自序
季布<(きふ)>欒布<(らんぷ)>列伝 第四十
[季布は]激しい気質をおさえてもの柔らかになり、ついには要路に登った。欒公(欒布)は権力者のおどかしに屈せず、死者に背きはしなかった。ゆえに季布・欒布列伝第四十を作る――太史公自序
袁盎<(えんおう)>鼂錯<(ちょうさく)>列伝 第四十一
主君がどんなに不機嫌になっても、諫めて君主の道義を完全にし、一身の安全はかえりみず、国家長久のための方策をたてた。ゆえに袁盎・鼂錯列伝第四十一を作る――太史公自序
張釈之<(ちょうせきし)>馮唐<(ふうとう)>列伝 第四十二
法規をきびしく守っていても、大いなる道理をそこなうことはなかった[のは張釈之であった]し、古代のすぐれた人物について論じ、主君の明知をさらに増した[のは馮唐であった]。ゆえに張釈之・馮唐列伝第四十二を作る――太史公自序
万石<(ばんせき)>張叔<(ちょうしゅく)>列伝 第四十三
忠実温厚で、子を慈しみ親に孝養を尽し、発言は慎み深いが、行動は速やかであった。まことに君子であり徳のあつい長者である。ゆえに万石・張叔列伝第四十三を作る――太史公自序
田叔<(でんしゅく)>列伝 第四十四
節義を守りまっすぐに義務をはたし、その正義は廉潔と言うに足り、その行動は思慮ある人々をはげますに充分であった。重い任務をゆだねられたが、かれをゆがめて道理にはずれた振舞いをさせることは不可能であった。ゆえに田叔列伝第四十四を作る――太史公自序
扁鵲倉公<(へんじゃくそうこう)>列伝 第四十五
(医学の記述について正確に訳しうることが不可能として省略されています)
呉王濞<(ごおうひ)>列伝 第四十六
劉仲(りゅうちゅう)が[代(だい)国を]めしあげられたのち、[その子の]劉濞は呉の王となった。かれは漢成立の当初に揚子江・淮河の一帯を支配した。ゆえに呉王濞列伝第四十六を作る――太史公自序
魏其<(ぎき)>武安侯<(ぶあんこう)>列伝 第四十七
呉・楚が反乱をおこしたころ、天子の一門親戚のなかでは竇嬰がとりわけ賢明で、よろこんで人材を迎えた。[当然]人材はかれのもとへ集まった。かれは軍隊をひきい滎陽において山東(東中国)から来る反乱軍に立ち向かった。ゆえに魏其侯(竇嬰)・武安侯(田蚡)列伝第四十七を作る――太史公自序
韓長孺<(かんちょうじゅ)>列伝 第四十八
[韓安国の]叡智は現代の変化に対処することができ、寛大さは人の心をつかんだ。ゆえに韓長孺列伝第四十八を作る――太史公自序

<()>将軍列伝 第四十九
[李広は]敵に向かえば勇敢であり、士卒には愛情深かった。命令は煩雑ではなく、部下は彼を慕った。ゆえに李将軍列伝第四十九を作る――太史公自序
匈奴<(きょうど)>列伝 第五十
三代(夏・殷・周)のむかしからずっと、匈奴は常に中国にとって憂慮と災害をひきおこす存在だった。[漢は]その強弱の推移を知り、防備をととのえ征伐しようとした。ゆえに匈奴列伝第五十を作る――太史公自序

匈奴の英雄 冒頓単于の他、匈奴に降伏してその参謀となった中行説(ちゅうこうえつ)などが記された匈奴に関する伝記です。
<(えい)>将軍・驃騎<(ひょうき)>列伝 第五十一
[かれらは]曲がりくねった辺境の長城地帯を巡察し、黄河以南(オルドス)の地域を漢領にくみいれ、祁連で敵をうち破り、西方諸国との交通路を開き、北方の蛮族を服従させた。ゆえに衛将軍・驃騎列伝第五十一を作る――太史公自序

衛将軍とは大将軍衛青(えいせい)、驃騎とは彼の甥で驃騎将軍の霍去病(かくきょへい)のことです。
平津侯<(へいしんこう)>主父<(しゅほ)>列伝 第五十二
大臣や皇族たちが、贅沢さを競いあっているなかで、ただ公孫弘ひとりは、衣服・食物を質素にし、官吏たちの手本となった。ゆえに平津侯(公孫弘)列伝第五十二を作る――太史公自序
南越<(なんえつ)>列伝 第五十三
漢が中国を平定したのち、趙佗(ちょうた)はよく揚越の地を統一して、漢の属国として南方の地域を保持し、貢物を都へ送らせていた。ゆえに南越列伝第五十三を作る――太史公自序
東越<(とうえつ)>列伝 第五十四
呉が反逆したとき、甌(おう)の部族が呉王の劉濞を斬った。[のちに越に攻撃されて敗れ]封山(ほうざん)と禺山(ぐうざん)を確保して、漢の臣となった。ゆえに東越列伝第五十四を作る――太史公自序
朝鮮<(ちょうせん)>列伝 第五十五
燕の太子であった丹は遼の地方に逃げまどった。のちに衛満がその亡命者をとりまとめ、東海の地域に結集して真番(しんぱん)の国を作り上げ、国境を確保して漢の外臣となった。ゆえに朝鮮列伝第五十五を作る――太史公自序
西南夷<(せいなんい)>列伝 第五十六
唐蒙が使者として夜郎(やろう)との連絡をつけてから、邛(きょう)と筰(さく)の君主は漢の臣下となって漢の官吏を置くことを請願した。ゆえに西南夷列伝第五十六を作る――太史公自序
司馬相如<(しばしょうじょ)>列伝 第五十七
[司馬相如の作った]子虚(しきょ)の事柄(「天子游猟(ゆうりょう)の賦」の内容)や、「大人(たいじん)の賦」の表現は、過度に華麗で誇張が多いが、しかしながらその趣旨は風刺諫言することであって、「無為」の思想に根ざしているといえる。ゆえに司馬相如列伝第五十七を作る――太史公自序
淮南<(わいなん)>衡山<(こうざん)>列伝 第五十八
黥布が反逆したため、[高祖の子]劉長がその国を領有することになり、淮水・揚子江の南の地域の鎮めとなった。[劉長の子]劉安は楚の地方の人民をしいたげた。ゆえに淮南・衡山列伝第五十八を作る――太史公自序
循吏<(じゅんり)>列伝 第五十九
法律をかたく守り、道理に従っ[て職務を果たし]た官吏たちは、おのれの功績をほこらず、才能をみせびらかすこともしなかった。人民から称賛をうけることもなかった。けれども、過度の失策をしたこともなかったのである。ゆえに循吏列伝第五十九を作る――太史公自序

法律により人民を過度に押さえつけなかったけれども、よく治めた人として叔孫敖(しゅくそんごう)、子産(しさん)、公儀休(こうぎきゅう)、石奢(せきしゃ)、李離(りり)の伝記が記されています。
<(きゅう)><(てい)>列伝 第六十
衣冠をととのえて朝廷に立てば、百官にだれひとりとしていいかげんな発言をする者はなく、長孺(ちょうじゅ、汲黯(きゅうあん)の字(あざな))はそれを誇りとした。好んで人を推薦し、長者(人望ある人物)を称賛したのは、荘(鄭当時(ていとうじ)の字)の人徳であった。ゆえに汲・鄭列伝第六十を作る――太史公自序

儒林<(じゅりん)>列伝 第六十一
孔子が世を去ってから、都では学校を尊重する者はいなくなった。しかし、[漢の武帝の]建元・元狩(前140年〜117年)のころには、とくに文辞(学問や文学)がきらめき輝いた。ゆえに儒林列伝第六十一を作る――太史公自序

『詩経』を講述した申公(名は培(ばい))、博士である轅固(えんこ)・韓嬰(かんえい)・児寛(げんかん)、秦の焚書で失われた『尚書』を発見した孔安国、『士礼』を解説した高堂(名は不明)・除(名は不明)、『易経』を伝えられた王同子仲(おうどうしちゅう)とその弟子揚可(ようか)、『春秋』を修めた董仲舒(とうちゅうじょ)などの伝記が記されています。
酷吏<(こくり)>列伝 第六十二
民が根本の業(わざ、農作のいそしみ)からはずれて偽りが多くなり、混乱をまきおこし法を手玉に取るようになると、善良な統治者では彼らを教化することはできなくなり、ただ苛烈な強圧策だけが、一応の統制を保ちうることとなるのである。ゆえに酷吏列伝第六十二を作る――太史公自序

「酷吏」とは、人よりも法を重んじる残酷非情な官僚という意味で、「循吏」に対比されるものです。権力側からみれば有能な官僚ということでしょうか。
呂后の時代に皇族劉氏や漢の功臣たちを押さえつけた侯封(こうふう)、郅都(しっと)、寧成(ねいせい)、周陽由(しゅうようゆう)、趙禹(ちょうう)、張湯(ちょうとう)、義縦(ぎしょう)、王温舒(おうおんじょ)、尹斉(いんせい)、楊僕(ようぼく)、減宣(かんせん)、杜周(としゅう)という名がみえます。
大宛<(たいえん)>列伝 第六十三
漢が大夏(たいか、バクトリア)に使節を送ってからのち、西のはてにいる蛮族たちは、はるかにわが漢に心をよせ、中国を見たいとあこがれた。ゆえに大宛(フェルガーナ)列伝第六十三を作る――太史公自序

西域を冒険して「西域伝」を書き博望侯と称された張騫と、西域を攻略した弐師(じし)将軍(李広利)の伝記です。
游俠<(ゆうきょう)>列伝 第六十四
苦難にある人を救い出し、金品に困っている人を援助するということでは、仁者も学ぶ点があり、信頼を裏ぎらず、約束にそむかないということでは、義人も見習う点があろう。ゆえに游俠列伝第六十四を作る――太史公自序

漢の時代の高名な游俠である朱家(しゅか)・田仲(でんちゅう)・王公(おうこう)・劇孟(げきもう)・郭解(かくかい)の伝記です。
佞幸<(ねいこう)>列伝 第六十五
いったい君主に仕えて、その主君の目や耳を楽しませ、主君の顔色をなごませることができて、それで特に目をかけられ近づけられるようになった者たちも、しかし、その美貌だけによって寵愛されたのではなく、それぞれその能力にすぐれた点があった。ゆえに佞幸列伝第六十五を作る――太史公自序

「佞幸」という言葉の響きはよくありませんが、上の自序に書かれているとおり決して悪い意味で書いているわけではありません。ケ通(とうつう)・韓嫣(かんえん)・李延年(りえんねん)という人の伝記です。
滑稽<(こっけい)>列伝 第六十六
世の中の凡俗さに流されず、権勢や利益を求めて争うこともなく、上の者に対しても下の者に対してもかたくなにこだわることなく、自分はだれからも害をうけない。それは道の働きに似かよっている。ゆえに滑稽列伝第六十六を作る――太史公自序

奴隷の出身でありながら「三年間飛びもしなければ鳴きもしない鳥がいる」と斉の威王に謎かけをして諫めた惇于髠(じゅんうこん)、楚の荘王を堂々と風刺諫言した優孟(ゆうもう)、秦の始皇帝を冗談でもって諫めた優旃(ゆうせん)の伝記です。なお、「優」というのは役者・道化という意味だそうです。
日者<(にっしゃ)>列伝 第六十七
斉と楚、秦と趙において、日の占いする人は、それぞれにその用いられる慣習がある。それらの大体のやりかたを次々と観てゆく。ゆえに、日者列伝第六十七を作る――太史公自序

占い者である司馬季主(しばきしゅ)の伝記です。
亀策<(きさく)>列伝 第六十八
(亀卜(きぼく)の方法について正確に訳しうることが不可能として省略されています)
貨殖<(かしょく)>列伝 第六十九
官位をもたない全くの平民でも、政治の害にはならず、人びとの活動をさまたげることもなくて、うまい時期を見はからいものの売買をし、それでもって富をふやす。知ある人は、そこから得るところがあるだろう。ゆえに貨殖列伝第六十九を作る――太史公自序

漢の時代、かなり広域に歩き回った筆者が各地の住民の気質や習慣・物産などの記録を中心に、各地の風土とそこで成功した人物の伝記が書かれています。
太史公<(たいしこう)>自序 第七十
これは『史記』全体の自序であって目次を兼ねたもので、『史記』百三十巻の最終の巻です。現在の目次はずっとのちの世に冒頭に加えられたもので、序文あるいは目次はこのように全書の末にあるのが古い形式だったそうです。

『史記』は司馬遷とその父親である談の共同作品といってもいいものでしょう。最後に書かれたこの文は自分自身およびその父親・祖先の伝記と、『史記』を書くにあたってその意図などを書いています。



戻る