史記Ⅰ 本紀

司馬遷 小竹文夫・小竹武夫訳
ちくま学芸文庫


 岩波文庫から出版されている「史記 列伝」と「史記 世家」は以前読みましたが、当時「本紀」の訳書が見つからなかったため、「史記 本紀」という書を読みました。この本は原文と訳文、解説と親切な構成になってはいるものの、全体像は掴めないためちょっと物足りなさを覚えていました。しかし、先日読んだ『正史 三国志』のカバーに『史記』全8巻と広告が載っていることに気づいて、やっと全文を読むことができたという次第です。


 「本紀」は黄帝から秦の始皇帝による統一を経て漢の武帝までの帝王の事績を著したものです。
 列伝では各伝の頭に「太史公自序」を載せていますが、本紀では最後に「太史公言う・・・」とまとめ(太史公の感想?)を述べています。

五帝本紀 第一

 太史公言う。学者が五帝の事績を論ずるのは久しいことだが、尚書にはただ帝堯以来のことを記してあるだけで、黄帝のことを記したのは百家の書である。しかし、百家の書は文章が典雅穏当でなく、貴顕・学者には妄誕すぎるので、口にするのもはばかられる。孔子の伝えた宰予問や五帝徳・帝繁姓は、経伝に記されていないので、漢の儒者は聖人の言ではないとして多く伝え学ばない。わたしは、かつて旅行を試み、西は空桐に行き、北は涿鹿を訪ね、東は海に到り、南は江淮に浮かんだが、長者老人が、往々黄帝や堯・舜を語る地方に行くと、風俗がほかの地方と違っていた。総じて古文を離れないものが真実に近く、わたしが春秋や国語を読むと、五帝徳や帝繁姓の記述で明らかに発明するところがある。想うに、ただ深く考えぬだけのこと、記されていることはけっして虚言ではない。書経は一部分が欠けているが、散逸した部分は、往々他の書物に記されている。学問を好み、深く思い、心にその意を知るものでなければ、浅見寡聞の者には、かようなことを言ってもむだであろう。わたしはこれらの説を検討し、ことばのもっとも典雅なものをえらんで、この篇を著し、本紀の書のはじめとした。
夏本紀 第二
 太史公言う。禹は姒姓であるが、その子孫は分封せられ、国名を姓としたので、夏后氏・有扈氏・有男氏・斟尋氏・彫城氏・褒氏・費氏・杞氏・繒氏・辛氏・冥氏・斟氏・戈氏がある。孔子は夏の暦を正しいとしたので、学者は多く夏小正を伝えるのだという。虞・夏の時代から貢賦の制が整った。ある人は、禹が諸侯を江南に会し、諸侯の功を計って崩じたので、そこに葬り地名を会稽と名づけた。会稽は会計で、諸侯の功を計ったからだという。
殷本紀 第三
 太史公言う。わたしは詩経の「商頌」篇によって契の事績を記したが、成湯以降のことは書経や詩から材料を採った。契は子姓であるが、その後子孫が分封せられたので国名を姓とし、殷氏・来氏・宋氏・空桐氏・稚氏・北殷氏・目夷氏などができた。孔子は、「殷の路車はよい」と言っている。殷人は白色をたっとんだ。
周本紀 第四
 太史公言う。学者はみな周が紂を討って洛邑におったというが、その実をたずねるとそうではない。武王がこれを営んで成王・召公をおらせ、九鼎を奉安したが、周はもとどおり豊・鎬に都していたのである。犬戎が幽王を破るにいたって、周ははじめて東、洛邑にうつった。いわゆる周公畢に葬るで、畢は鎬の東南の杜の中にあった。秦が周を滅ぼし、漢が興って九十余年、天子が泰山を奉じようと東方に巡狩して河南に行ったとき、周の後裔を探し、子孫の嘉に三十里の地を与えた。号して子南君といい、列侯になぞらえ、先祖の祭祀を奉ぜさせた。
秦本紀 第五
 太史公言う。秦の遠祖の姓は嬴であるが、後世子孫が分封せられ、封国の名をもって氏となし、徐氏・郯氏・莒氏・終黎氏・運奄氏・菟裘氏・将梁氏・黄氏・江氏・修魚氏・白冥氏・蜚廉氏・秦氏があった。しかし、秦の直接の先祖の造父は、趙城に封ぜられたので趙氏である。
始皇本紀 第六
 太史公言う。秦の先祖の伯翳は、かつて唐・虞の時代に功労があり、土地を受け姓を賜った。夏・殷の時代には、家運が衰微し一族離散していたが、周末から秦の名をもって興り、西方辺境に邑を立てた。穆公以来、漸次諸侯の土地を蚕食し、ついに始皇にいたって天下を併呑した。始皇は自ら自己の功業が五帝にまさり、領土は三王(堯・舜・禹)より広いとして、五帝・三王と同一視されるのを恥じた。秦の興亡については、漢の賈生が「過秦論」で巧みに論じているので、その文を借りよう。
(以下略)
項羽本紀 第七
 太史公言う。わたしは周生から、「舜の目は重瞠子(二つ瞳)」であり、「項羽も重瞠子」であったと聞いた。羽はあるいは舜の苗裔ででもあろうか。それにしても、興ることのなんとすみやかだったことだろう。秦が政を失い、陳渉がはじめて兵を挙げると、豪傑蜂起して相ともに天下を争う者は、数えられぬほどであった。羽は尺寸の土地ももたず、勢いに乗じて壟畝の中から起こり、三年でついに五諸侯を率いて秦を滅ぼし、天下を分って王侯を封じ、政権をとって号して覇王といった。位を全うしなかったが、このようなことは近古以来いまだかつてないことである。しかし、羽が関中形勝の地を捨てて楚をおもい、義帝を放逐して自立すると、王侯がおのれにそむいたのを恨んだが、これはあやまっている。自ら功伐をほこり、私智を振るっていにしえを師とせず、その為すところをもって覇王の業と信じ、力征をもって天下を経営しようとすること五年、ついにその国を滅ぼし、身を東城に歿しながら、なおおのれの非を覚らず自らを責めず、「天がわれを滅ぼすのであって、兵を用いるの罪ではない」としたのは何とあやまりではなかろうか。
高祖本紀 第八
 太史公言う。夏の政は忠をたっとんだが、忠の弊は、粗野に流れて礼節の少ないことにある。だから殷人はこの弊にかんがみ敬を尚んだが、敬の弊は、鬼神をたっとび災祥を信ずることにある。だから周人はこの弊にかんがみて文をたっとんだが、文の弊は、細末におちいって軽薄なことにある。ゆえに細末軽薄を救うには忠に如くはなく、三王の道は循環の如く、終わってまた始まるのである。周・秦更替の際は、文の弊にあったものと言わねばならないが、秦はこの弊を改めず、かえって刑法を酷にしたのは、道にもとるものであろう。ゆえに漢が興って秦の弊にかんがみ、法を約して忠にかえったのは、民心を倦まざらしめるもので、終始循環の天統を得たものである。朝するに十月をもってし、車服は黄絹を用い、大纛を左側につけた。
呂后本紀 第九
 太史公言う。孝恵帝・呂后のときには庶民は戦国時代の苦しみを離れることができ、君臣はともに戦乱のない世に安息することを願った。だから孝恵帝は手をこまねいて何事もせず、呂太后は女性の身をもって政権を握り、天子のように制を称したが、政事は後宮を出ず、天下は安泰であった。刑罰の行われることはまれで、罪人の出ることも少なく、庶民は農業に勤め、衣食はいよいよ豊かになっていった。
孝文帝本紀 第十
 太史公言う。孔子は「必ず世にして後に仁ならん。善人の国を治むる百年、またもって残に勝ち殺を去るべし」といった。まことなるかなこの言や。漢がおこって文帝にいたるまで四十余年、帝徳はまことに盛んで、正朔服色を改め、封禅を行うときにしだいに近づいたが、文帝は謙虚で、まだ封禅のことには及ばなかった。ああ、何と仁君ではないか。
孝景本紀 第十一
 太史公言う。漢がおこって、孝文帝が大徳を布き、天下が大いに安らかとなった。孝景皇帝の時にいたっては、異姓を恐れる必要がなく、晁錯は同姓諸侯の領地をけずった。このため、ついに七国を起ち上がらせ、連合して西にむかわせた。これは諸侯王の勢いがはなはだ盛んであったのに、晁錯が漸進策をもって対処しなかったからである。主父偃の主張により、推恩の令を下してからは諸侯の力が弱まり、ついに漢朝は安泰となった。安泰と危機の機微は、よく事をはかるとはからぬにかかるものではなかろうか。
孝武本紀 第十二
※孝武本紀は早く亡佚し現在のものは後人(漢の禇少孫か)の補作と言われるが、実は封禅書の大部分をそのまま採録したものに過ぎない。禇の補作も佚したので、後人が妄改したものか(銭大昕の説)。

 太史公言う。わたしは天子が天下を巡遊して天地緒神名山大川を祭り、泰山・梁父に封禅するのに扈従し、寿宮に入って神を祀るのに陪侍したので、あまねく方士・祀官の言うところを観察することができた。そこで退いて、いにしえより以来、事を鬼神に用いる者を論次し、つぶさにその表裏を記してみた。後世君子があらば、この間の事情を察知できよう。俎豆の並べかたや珪弊の置きかた、さては儀式の次第といった形式については、専門の有司がいることである。

 

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