青山一髪<(せいざんいっぱつ)>

陳舜臣 著
中央公論新社


 主人公は中国の王朝をうち破り、初めて民主国家を打ち立てた辛亥<(しんがい)>革命の英雄、孫文です。孫文にとって彼が育ったハワイが「第二の故郷」、そして革命運動のベースとした日本は「第三の故郷」というべきものでした。当時、女真(満州)族が建てた王朝、清は西太后の専横など末期的な状況で、しかも列強諸国の植民地化しつつあったのです。この状況に不満を持つ漢民族の人たちは「反清復明」(満州族の清に反抗して漢民族の明に戻す)というスローガンを建てていました。まるで鄭成功の時代みたいですが・・・
 明治維新は、どちらかというと薩長によるクーデターという感じですが、中国では「革命という厳しい戦いで勝ち取ったもの」という苛烈なものでした。暗殺や自爆テロといった暴力的な手段もとられたそうで、日本とはかなり違うということがわかりました。

 例によって、広辞苑から孫文についてご紹介しましょう。

そん‐ぶん【孫文】
(Sun Wen; Sun Yat-sen) 中国の革命家・政治家。字は逸仙。中山と号。広東香山県の人。初め医者となり、やがて興中会を組織、さらに中国同盟会を結成、革命運動に尽力。しばしば日本へ亡命。一九一一年の辛亥革命に際し臨時大総統に選ばれたが、直ちに袁世凱に譲り、袁および段祺瑞(ダンキズイ)らの軍閥の専制化に反対、反袁運動をおこす。一九年中国国民党を組織し、さらに国共合作をすすめ、新三民主義を提唱、国民革命の実現をめざしたが、半ばにして北京で死去。
著「三民主義」「建国方略」など。(1866〜1925)
 書名にもなっている「青山一髪」は孫文の尊敬していた蘇軾<(そしょく)>の詩から引用したものです。蘇軾は宋の時代の人で、最初は王安石と合わず入獄ののち黄州へ流罪、その後新法・旧法の争いに巻き込まれて海南島へ流罪させられながらも楽観主義で乗り切った人です。孫文も楽観主義の人で、悲運に遭ってもあきらめない人でした。
余生 老いんと欲す 海南の村
帝は巫陽<(ふよう)>をして我が<(こん)>を招かしむ
杳杳<(ようよう)>として天は低く <(こつ)>の没する<(ところ)>
青山一髪 是れ中原<(ちゅうげん)>

 余生は海南の村で送ろうと思っていたが、皇帝は失脚している自分を思い出し、巫陽(みこ)に私の魂を呼び戻せと仰せられた。遠い遠い彼方の天は低く、はやぶさがそこに姿を消すところ、髪ひとすじのように青い山。 ――あぁ、そここそ夢にみた中原―― 祖国の真ん中ではないか。
 本作品は何度も失敗しながらも、最後には辛亥革命を達成するところまでを描いています。第一次アヘン戦争(1840)でイギリスに敗れ、太平天国の乱(1850)、第二次アヘン戦争(1856)とその後の天津条約締結、日清戦争(1894)、戊戌<(ぼじゅつ)>の政変(1898)、義和団事件(1900)と国内は着実に衰退の道を進んでいました。
 孫文は1895年に広州で武装蜂起を企てますが、内部者の密告によりあえなく失敗。謀反者として首に懸賞金をかけられ安住の地をなくして日本、ハワイ、アメリカ、イギリスと亡命の旅を続けて革命のために組織しつつ、悲運に遭ってもあくまでも楽天的に己の理想実現に邁進するのでした。
 日本人の中にも宮崎滔天や梅屋庄吉など民間人で孫文を支援した人たちがいました。しかし、日本国としては革命派より清政府を支持していました。日清戦争で日本が得た台湾総督の児玉源太郎は清政府は長く続かないと見て孫文たちを支援しようとしますが、首相となった伊藤博文はあと20年ほどは大丈夫だと見て清政府側につきます。民間と国との違いがありますが、孫文はあくまでも中国が一人前の国になったら同じようにつき合えるのだと、楽観していました。

 革命派は何度もの失敗を重ねますが、ついに革命の嵐は中国全土を覆うほどになりました。そして、孫文は1911年に中華民国臨時政府の大総統に就任します。しかし、彼の就任誓詞には「すぐに辞任する」という文が入っている異例なものでした。
 ‥‥専制政府すでに倒れ、国内に変乱なく、民国が世界に卓立し、列邦の公認するところとなるに至れば、この時、(孫)文はまさに大総統の職を解くべし。謹んでここに国民に誓う。
 本書はここで終わっていますが、孫文の経歴から見るとこれは前半戦とでもいうべきものです。このあと袁世凱との対立、国民党の設立など後半戦が続くのですが、続編があるのでしょうか・・・

 青山一髪 孫文起つ  青山一髪 辛亥への道

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