「正史」はいかに書かれてきたか

竹内康浩 著
あじあブックス 大修館書店


 かつて中国の後漢の時代、班固という人が「私に国史を改作する」という罪で投獄されました。また、その後、隋の時代、「歴史を書くことを禁止する」という命令が出されました。出したのは隋王朝を開いた初代皇帝楊堅<(ようけん)>でした。また、この二つの出来事はつながっていて、今とは違い下々の者にとって歴史とは関わってはいけないことだったようです。でも、結局班固はその後、赦されて後に前漢王朝一代の事を記した『漢書<(かんじょ)>』という史書を書きます。

 中国における最初の歴史書は『春秋』という書物でした。この『春秋』は儒教の教科書として、『詩経』『書経』『易経<(えききょう)>』『礼記<(らいき)>』とともに五経と呼ばれその後極めて尊重されてきました。
 『春秋』はもともと春秋時代、魯という国の公室の記録でした。しかし、孔子がこの書物の編集に深く関わり、その中に彼の主張が強く込められているというのです。そのために後世の儒家により教科書として使われてきました。『春秋』の記述はあまりに簡潔すぎるために『春秋左氏伝』『春秋公羊<(くよう)>伝』『春秋穀梁<(こくりょう)>伝』という3種類の注釈書があります。そのなかでも『春秋左氏伝』は分量も多く、説話も多く取り上げられているため、比較的取っつきやすいものです。(とはいえ、かなり手強いものです)
 孔子の主張が込められているとは、こういうことです。

元年春、王の正月。
三月、公、邾の儀父と蔑に盟す。
夏五月、鄭伯、段に鄢に克つ。
秋七月、天王、宰喧をして来たりて恵公・仲子の賵を帰らしむ。
九月、宋人と宿に盟す。
冬十有二月、祭伯、来たる。公子益師、卒す。
 一年間の出来事を書いたのがこれだけです。この中に孔子の主張が込められているといっても全然わかりません。
 3行目は漢字にすると「夏五月鄭伯克段于鄢」というたった9文字の文章ですが、その内容は、鄭の国で起った君主とその弟による戦いのことを書いています。鄭の荘公が即位した後、弟の段は母親にかわいがられていることをいいことに、ことごとく荘公に逆らっていました。そしてついに母親と共謀して兵を挙げるのです。しかし、それを予見していた荘公は兵を起して鄢の町で段を破り、段は他国へ出奔したという事件です。
 『春秋左氏伝』によればこうです。当事者の一方である弟は「段」とだけ書いていて荘公の弟であることを敢えて言わないのは、段が弟としてふさわしくない行いをしたからである。また、「鄭伯」と書いて兄であることを書かないのは弟を善導できなかったことを批判している。「克」という字は国と国との戦争について使う字であるが、この場合個人対個人というものではなく二国間の戦争のような厳しい状況であったことを示している。そして、結末の段の出奔について書いていないのは、兄の鄭伯(荘公)にも責任があるのでいささか憚ったのである。
 上の例でもわかるように、当時の歴史書というのは現代の私たちの考えとは違い、正確に記録するものではなく、何らかの意図を持って書かれたものなのです。『春秋』について言えば、孔子による「事実よりも評価」という書物であり、現代の私たちの持っている「歴史書」とは異なるものと考えた方が良さそうです。

 漢の時代、司馬遷によって書かれた『史記』(これは後世の呼び方で、司馬遷は『大史公書』と呼んでいます)が空前絶後の名著であることは異論がありません。
 『史記』は紀伝体という形式で書かれています。王・皇帝のことを記した「本記<(ほんぎ)>」と臣下のことを記した「列伝」からなる形式です。『史記』の場合、その他に諸侯のことを記した「世家<(せいか)>」、制度のことを記した「書」、年ごとの事件を記した「表」から成っています。その後の史書はこの紀伝体で書かれていきます。
 『史記』がなければ古代のことは今ほどわからなかったことでしょう。しかし、単に記録というだけではなく、その生き生きとした表現から文学的にも高い評価を受けています。現代、私たちが中国歴史小説を楽しむことができるのはこの『史記』があるからと言ってもいいでしょう。

 『史記』のあと、『漢書』『後漢書』『三国志』・・・という正史が書かれていきます。これらの史書は上に書いたような『春秋』と同様の意図を持って書かれていることに注意しなければなりません。後世になると、その意図が見え見えになるものが多くなってきますが、それでも上に書いたようなことを理解すれば、その価値が減じられるものではありません。
 中国の「正史」には正式なものとしては歴代24あり、「二十四史」と呼ばれています。正史を編纂するのは、王朝が亡んだあと建てられた王朝が行うことになっていまして、最後の王朝である清については「清史」という書を中華民国が編纂しています。しかし、これは正式な正史としては認められていません。(清の後を継いだのは中華民国ではなく、中華人民共和国ということだそうです)

 「正史」はいかに書かれてきたか

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