正史 三国志

陳寿 (著) 裴松之 (注) 今鷹真・井波 律子・小南一郎(訳)
ちくま学芸文庫(全8巻)


(2012/9/23 記)
 ついに三国志を読み終えました。前回、呉書の訳者小南一郎さんの訳に対してちょっと違和感を感じると書きましたが、これは個人的な感想で、決して良し悪しを言っているわけではありませんので、誤解なきよう。この訳を親しみやすくて好きだと言われる方も多いと思います。以下は関西弁?
魏滕が孫権に対して厳しく諫め、孫権が腹を立て「それに対し意見をいう者を死罪に処する」と宣言したことを呉範が諫めるために面会に来た場面(呉範伝)
(前略)取次ぎの役人に、[自分が諫言するためにやって来ていることを]孫権に伝えてほしいといった。取次ぎの役人は、自分はよう取次がないと拒絶し、いった。「[とばっちりを受けて]殺されると決まっておりますものを、お伝えすることはよういたしません。」呉範がいった、「あなたには子供があるか。」「ございます。」「もしあなたが私のために死ぬことになったら、子供は私があずかろう。」取り次ぎの役人がいった、「よろしゅうございます。」そこで扉を押し開いて中に入った。
呉範の取りなしにより、やっとのことで魏滕は刑罰を免れました。
 本書には、最後に以下のような付録が載っています。
  1. 年表(小南一郎作成)

  2. 155年~283年の主な出来事を40ページで簡潔にまとめてあります。
    三国志など紀伝体で書かれているものは、紀や伝ごとに時代が前後しますので、流れを理解するのに便利です。
  3. 三国官職表(今鷹真作成)

  4. 正式な官職の他、資格や称号にすぎないものも記載されています。
    後漢から晋への流れにある魏について詳しく、一国で断絶する蜀・呉については簡略になっています。
  5. 裴松之注引用書目(今鷹真作成)

  6. 裴松之の注は、陳寿の記事と異なった伝承、陳寿の記さなかった事柄を載せるものと、陳寿の記事に見える言葉や典故を説明するものとあり、2種類の異なった性格を持つ注が混在する。ここでは前者に関する書物を説明しています。
    ここに挙げられているものだけでも37ページにおよび、すごい量があります。裴松之の作業が大変だっただろうということが思いやられます。
  7. 人名索引(井波陵一作成)

  8. 三国志全8冊を対象とし、人名・姓氏・個人の称号等を五十音順に配列したものです。また、登場するページが挙げられています。
    ざっと見たところ、曹操が71行で第1位、孫権が51行で第2位、曹丕が42行で第3位、劉備が37行で第4位です。曹丕と劉備の差は、書のボリュームからそんなものなのでしょうかね。
    ちなみに、人気の高い諸葛亮は27行です。ファンの方、残念でした(笑)

(2012/9/15 記)
 ついに三国志も終盤、呉書1・2を読みました。呉書の訳は小南一郎さんという方ですが、各所で(私だけでしょうが)ちょっと違和感を感じながら読んでいました。漢字の言葉にはルビを付けて頂いているのですが、そのルビに対しての違和感です。それと、関西の方なのでしょうか、関西弁(?)で訳されているところがあるようで・・・
 『三国志演義』では脇役という感じの呉ですが、権謀術数や主君と臣の掛け合い、主君が耄碌(?)して愚かな行いをやるところ、変な人物など古代中国の物語のエッセンスが詰まっていて結構おもしろいです。
 鄭泉という、学問を修めて蜀に使者となった人物の伝が『呉書』(三国志ではない)に書かれています。(裴松之の注より)
 鄭泉は、字を文淵といい、陳郡の人である。幅広く学問をおさめ、その心ばせは人々にぬきん出たものであった。しかも酒を好み、家にひきこもっているときには、つねづねいっていた。「美酒を五百石の船いっぱいに満たし、美味で口あたりのよい季節の食べ物を両側に置く。その中でバチャバチャしたり潜ったりして酒を飲み、疲れれば酒をやめてご馳走を食べる。酒が少しでも減ればすぐさまつぎ足す。こんなふうにできれば、すばらしいではないか」と。
(中略) いやぁ、酒好きもここまで来れば大したものです。このあと、続きがあって、
 鄭泉はその死に臨んで仲間にいった。「必ず私を陶器造りの家のそばに埋めてほしい。百年も経つうちに[わが身体は]土と化して、うまくすればその土が使われて酒壺になれるやもしれない。そのとき私の心願はみごと叶うのだ。」
 ここまでくれば、お見事というしかありません。(笑)

 注を書いた裴松之という人は、どうも呉に対して良い印象を抱いていないようで、あちこちにそのような記述が見られます。陸遜伝に書かれているエピソードに対する注を紹介しましょう。236年、孫権が自ら北方(合肥)へ軍をすすめた時のこと、陸遜が江夏を急襲して制圧したあと手厚く民衆を保護したということに対して、
 臣裴松之が思うに、陸遜は、孫権がすでに軍をひいてしまい、魏が自分の方へ戦力を集中できるようになったことを心配したのではあるが、大いに威勢を示して敵が妨害しようとするのを防ぐことができたうえは、船をならべて流れを下ってゆけば、何の心配ごともなかったのだ。それなのに、なぜわざわざ武将たちを派遣し、小さな県を急襲したりして、市場にいる人々をあわてふためさせ、死者まで出させたりしたのか。千人を捕虜にしたり殺したりしても、魏に損害を与えるには足らず、ただ無辜の民衆を理由もなく酷い目にあわせただけのことなのだ。諸葛亮が渭水流域で展開した軍事行動と、なんと違いのあることか。用兵の道を間違ったうえは、掟に外れた際におこる凶事はまぬがれあない。その家が彼のあと三代までも続かず、孫の代で亡びてしまったのは、こうした悪行が子孫に及ぼした災いではなかったろうか。
 いやぁ、手厳しい。このような調子で孫権はじめ呉の人々に対して手厳しく批評している文が至る所、目につきます。

(2012/8/11 記)
 蜀書を読みました。以前にもつまみ食い的に読んでいましたが、通して読むというのは初めてでしたが、本書は『三国志演義』など中国小説を訳された井波律子さんが担当されたらしく、読みやすかったです。
 『三国志演義』で主役の劉備・諸葛亮の伝が書かれていますが、蜀の文官の伝も多くて私の知らない人物も多く(当然でしょうが(^^;)、演義ファンの方は「諸葛亮伝」などその素っ気なさにちょっとガッカリするかもしれません。
 本書の最後に書かれた「楊戯伝」にはおまけのように『季漢輔臣賛』が書かれています。これは陳寿が引用したもので、後世の人間から見ると裴松之の注などとちょっとややこしいです。
 楊戯は延熙四年(241)に、『季漢輔臣賛』を著した。彼が称賛したものの多くは、この「蜀書」に記載する人物である。したがって、その文を以下に記載する。この文が書かれた後死亡した者については諡[おくりな]が与えられていない。そのため、当然称賛し記述されるべきであるにもかかわらず、この文に載録されていない人間もいる。楊戯が称賛した者で、ここに伝を立てなかった者に関しては、私(陳寿)が、その人の後に履歴を注記し、だいたいその人物の輪郭が浮かび上がるようにしておいた。
 ただし、ここに書かれている人物がすべて称賛されているわけでなく、むしろ批判されている人物もいます。紹介文の最後には「~を賛[たた]う」と書かれているのですが、麋芳・士仁・郝普・潘濬については「麋芳・士仁・郝普・潘濬を賛う」と書かれていて、彼らだけ官職や字[あざな]で呼ばれていません。裏切り行為に対する陳寿の気持ちを表しているのだそうです。(なかなか奥が深い)

(2012/7/25 記)
 魏書を読み終えました。
 途中、文官の伝がズラズラと続いているのはなかなか読むのに根気が要ります。また、書いていることが意味不明のことも多くてなかなか読み進みませんでした。
「劉司馬梁張温賈伝第十五」の「温恢伝」に書かれた注より
[一}『魏略』にいう。賈逵の家は代々名家であったが、若いころ親をなくし家は貧しく、冬にはつねに袴(ズボン)もなかった。妻の兄の柳孚を訪れて泊まったが、その翌朝がまんできず柳孚の袴をつけて去った。そのため当時の人は彼を頑健そのものだとうわさしあった。
 人のものを勝手に持ち去り、それで「頑健そのもの」というのでしょうかねぇ・・・。

 あと、伝の長さが長短いろいろあって、占いや予言をよくする「管輅伝」については注も含めて58ページにも渡って書かれています。これは「武帝記」の約半分程ですが、なんでこんなに長々と書くのかという思いでした。昔からこの手のもの(占いなど)には人気が出るのでしょうかね。

(2012/6/17 記)
 本書を購入したのはかなり前のことで、何かあるたびに断片的には読んでいましたが、ついに最初から読み始めることにしました。しかし、前から判ってはいたものの、読み始めるとこれがなかなか手強い。元々の陳寿の文章は簡潔な名文と言われているくらいで、多分それだけでは全然手に負えないでしょうが、裴 松之という人が本文の何倍もあるような注釈を付けてくれたおかげでかなり判りやすくなっています。それに加えて、訳者の方が結構な注釈を書いてくれているので、これも助かります。
 本書に登場する人物は三国志ファンにはお馴染みの人も多くて取っつきやすいかもしれませんが、よくわからない人の伝を長々と読んでいても、記憶にはなかなか残りません。ただ、いろいろな人の伝を縦横に総合すると時代がわかってくるのかなぁという感じです。
 裴松之の付けた注は、その頃にいろいろ書かれていた別の人の書の引用や自分の感想などがあります。その引用には、かなり偏った見方で書かれたものや思い込みの強いようなものがあり、それが小説『三国志演義』の元ネタになっているようです。裴松之はそれら引用は公平に紹介していますが、引用したものに対して「これは間違いではないか」とか書いているのが結構おもしろかったりします。
 <(わたくし)>裴松之が考えるに、『世語』で、孔融の二人の子が別れを告げなかったのは、まちがいなくいっしょに死ぬことになるとわきまえていたからである、と述べているが、それはまだ何とか納得できる。孫盛の言葉(『魏氏春秋』)となると、実際理解しえないものだ。八歳の小児が深く禍福の理を理解できたとすれば、その人並外れた聡明さは、水準をはるかに超えていることになる。であればその悲しみの感情は、当然成人以上であるに違いない。どうして父の逮捕を見てまったく顔色を変えることもなく、すごろくをしつづけて立ち上がらず、閑暇の楽しみの中にあるような様子でいられようか。昔、申生(春秋時代、晋献公の太子)は[讒言によって自殺する]運命に従ったが、言葉の端にも父を忘れず、自分の身は死のうとしながらも父を思う気持ちを捨て去らなかった。父が安泰であってすらなおこのようであったのだ。まして危急の時においてをや。孫盛はこのことを持って美談としているが、あの人(孔融)の子を傷つけることになるまいか。だいたい奇抜さを好む気持ちが強すぎて言葉が情理をそこなっていることに気がつかなかったからこうなったのだ。
いやぁ、まったく同感。
【正史 三国志1】 魏書Ⅰ
武帝紀第一 (曹操)
文帝紀第二 (曹丕)
明帝紀第三 (曹叡)
三少帝紀第四
 斉王紀  (曹芳)
 高貴郷公紀(曹髦)
 陳留王紀 (曹奐)
后妃伝第五
 武宣卞皇后伝
 文昭甄皇后伝
 文徳郭皇后伝
 明悼毛皇后伝
 明元郭皇后伝
董二袁劉伝第六
 董卓伝(付、李傕・郭汜伝)
 袁紹伝(付、袁譚・袁尚伝)
 袁術伝
 劉表伝
【正史 三国志2】 魏書Ⅱ
呂布臧洪伝第七
 呂布伝(付、張邈・陳登伝)
 臧洪伝
二公孫陶四張伝第八
 公孫瓉伝
 陶謙伝
 張楊伝
 公孫度伝(付、公孫康・公孫恭・公孫淵伝)
 張燕伝
 張繍伝
 張魯伝
諸夏侯曹伝第九
 夏侯惇伝(付、韓浩・史渙伝)
 夏侯淵伝
 曹仁伝(付、曹純伝)
 曹洪伝
 曹休伝(付曹肇伝)
 曹真伝(付、曹爽・曹羲・曹訓・何晏・鄧[風易]・丁謐・畢軌・李勝・桓範伝)
 夏侯尚伝(付、夏侯玄伝)
荀彧荀攸賈詼伝第十
 荀彧伝(付、荀憚・荀[虎甘])・荀[ライ]伝)
 荀攸伝
 賈詼伝
袁張涼国田王管伝第十一
 袁渙伝
 張範伝(付、張承伝)
 涼茂伝
 国淵伝
 田疇伝
 王修伝
 原伝
 管寧伝(付、王烈・張[至存]・胡昭伝)
崔毛徐何邢鮑司馬伝第十二
 崔琰伝
 毛玠伝
 徐奕伝
 何虁伝
 邢顒伝
 鮑勛伝
 司馬芝伝(付、司馬岐伝)
鍾繇華歆王朗伝第十三
 鍾繇伝(付、鍾毓伝)
 華歆伝
 王朗伝(付、王粛・孫叔然伝)
【正史 三国志3】 魏書Ⅲ
程郭董劉蒋劉伝第十四
 程昱伝(付、程暁伝)
 郭嘉伝
 董昭伝
 劉曄伝
 蒋済伝
 劉放伝(付、孫資伝)
劉司馬梁張温賈伝第十五
 劉馥伝
 司馬朗伝
 梁習伝
 張既伝
 温恢伝
 賈逵伝
任蘇杜鄭倉伝代十六
 任峻伝
 蘇則伝
 杜畿伝(付、杜恕伝)
 鄭渾伝
 倉慈伝
張楽于張徐伝第十七
 張遼伝
 楽進伝
 于禁伝
 張郃伝
 徐晃伝(付、朱霊伝)
二李臧文呂許典二龐閻伝第十八
 李典伝
 李通伝
 臧覇伝(付、孫観伝)
 文聘伝
 呂虔伝
 許褚伝
 典韋伝
 龐悳伝
 龐淯伝(付、龐娥伝)
 閻温伝(付、張恭伝、張就伝)
任城陳蕭王伝第十九
 任城威王彰伝 (曹彰)
 陳思王植伝 (曹植)
 蕭懐王熊伝 (曹熊)
武文世王公伝第二十
 豊愍王昂伝(曹昂)
 相殤王鑠伝(曹鑠)
 鄧哀王沖伝(曹沖)
 彭城王據伝(曹據)
 燕王王宇伝(曹宇)
 沛穆王林伝(曹林 曹豹)
 中山恭王袞伝(曹袞)
 済陽懐王玹伝(曹玹)
 陳留恭王峻伝(曹峻)
 范陽閔王矩伝(曹矩)
 趙王幹伝(曹幹)
 臨邑殤公子上伝(曹上)
 楚王彪伝(曹彪)
 剛殤公子勤伝(曹勤)
 穀城殤公子乗伝(曹乗)
 郿戴公子整伝(曹整)
 霊殤公子京伝(曹京)
 樊安公均伝(曹均)
 広宗殤公子棘伝(曹棘)
 東平霊王徽伝(曹徽)
 楽陵王茂伝(曹茂)
 賛哀王協伝(曹協)
 北海悼王蕤伝(曹蕤)
 東武陽懐王鑑伝(曹鑑)
 東海定王霖伝(曹霖)
 元城哀王礼伝(曹礼)
 邯鄲懐王邕伝(曹邕)
 清河悼王貢伝(曹貢)
 広平哀王儼伝(曹儼)
王衛二劉傅伝第二十一
 王粲伝(付、徐幹・陳琳・阮瑀・応瑒・劉楨・応璩・応貞・阮籍・嵍康・桓威・呉質伝)
 衛覬伝(付、潘勖・王象伝)
 劉廙伝
 劉劭伝(付、繆襲・仲長統・蘇林・韋誕・夏侯恵・孫該・杜摯伝)
 傅嘏伝
桓二陳徐衛盧伝第二十二
 桓階伝
 陳羣伝(付、陳泰伝)
 陳矯伝
 徐宣伝
 衛臻伝
 盧毓伝
【正史 三国志4】 魏書Ⅳ
和常楊杜趙裴伝第二十三
 和洽伝
 常林伝
 楊俊伝
 杜襲伝
 趙儼伝
 裴潜伝
韓崔高孫王伝第二十四
 韓曁伝
 崔林伝
 高柔伝
 孫礼伝
 王観伝
辛毗楊阜高堂隆伝第二十五
 辛毗伝
 楊阜伝
 高堂隆伝(付、桟潜伝)
満田牽郭伝第二十六
 満寵伝
 田豫伝
 牽招伝
 郭淮伝
徐胡二王伝第二十七
 徐邈伝
 胡質伝(付、胡威伝)
 王昶伝
 王基伝
王毋丘諸葛鄧鍾伝第二十八
 王淩伝(付、令孤愚伝)
 毌丘倹伝
 諸葛誕伝(付、唐咨伝)
 鄧艾伝(付、州泰伝)
 鍾会伝(付、王弼伝)
方技伝第二十九
 華佗伝(付、呉晋・樊阿伝)
 杜夔伝
 朱建平伝
 周宣伝
 管輅伝
烏丸鮮卑東夷伝第三十
 烏丸伝
 鮮卑伝
 東夷伝(付、夫餘・高句麗・東沃沮・挹婁・濊・韓・倭伝)
【正史 三国志5】 蜀書
劉二牧伝第一
 劉焉伝
 劉璋伝 
先主伝第二 (劉備) 
後主伝第三 (劉禅)
二主妃子伝第四
 甘皇后伝
 穆皇后伝
 敬哀皇后伝
 張皇后伝
 劉永伝
 劉理伝
 劉璿伝 
諸葛亮伝第五
 (付、諸葛喬・諸葛瞻・董厥・樊建伝) 
関張馬黄趙伝第六
 関羽伝
 張飛伝
 馬超伝
 黄忠伝
 趙雲伝 
龐統法正伝第七
 龐統伝
 法正伝 
許麋孫簡伊秦伝第八
 許靖伝
 麋竺伝
 孫乾伝
 簡雍伝
 伊籍伝
 秦宓伝 
董劉馬陳董呂伝第九
 董和伝
 劉巴伝
 馬良伝(付、馬謖伝)
 陳震伝
 董允伝(付、黄皓・陳祗伝)
 呂乂伝 
劉彭廖李劉魏楊伝第十
 劉封伝
 彭羕伝
 廖立伝
 李厳伝
 劉琰伝
 魏延伝
 楊儀伝
霍王向張楊費伝第十一
 霍峻伝(付、霍弋伝)
 王連伝v  向朗伝(付、向寵伝)
 張裔伝
 楊洪伝
 費詩伝 
杜周杜許孟来尹李譙郤伝第十二
 杜微伝
 周羣伝(付、張裕伝)
 杜瓊伝
 許慈伝
 孟光伝
 来敏伝
 尹黙伝
 李譔伝
 譙周伝
 郤正伝 
黄李呂馬王張伝第十三
 黄権伝(付、黄崇伝)
 李恢伝
 呂凱伝
 馬忠伝
 王平伝(付、句扶伝)
 張嶷伝 
蒋琬費禕姜維伝第十四
 蒋琬伝(付、蒋斌・蒋顕・劉敏伝)
 費禕伝
 姜維伝 
鄧張宗楊伝第十五
 鄧芝伝
 張翼伝
 宗預伝(付、廖化伝)
 楊戯伝
【正史 三国志6】 呉書Ⅰ
孫破虜討逆伝第一
 孫堅伝
 孫策伝
呉主伝第二
 孫権伝 
三嗣主伝第三
 孫亮伝
 孫休伝
 孫皓伝 
劉繇太史慈士燮伝第四
 劉繇伝(付、劉基伝)
 太史慈伝
 士燮伝(付、士徽・士壱・士[黄有]・士匡伝)
妃嬪伝第五
 孫堅呉夫人伝(付、呉景伝)
 孫権謝夫人伝
 孫権徐夫人伝(付、徐琨伝)
 孫権歩夫人伝(練師歩皇后)
 孫権王夫人伝(大懿王皇后)
 孫権王夫人伝(敬懷王皇后)
 孫権潘夫人伝(潘皇后)
 孫亮全夫人伝(全皇后)
 孫休朱夫人伝(朱皇后)
 孫和何姫伝(昭献何皇后)
 孫皓滕夫人伝(滕皇后) 
宗室伝第六
 孫静伝(付、孫瑜・孫皎・孫奐伝)
 孫賁伝(付、孫鄰伝)
 孫輔伝
 孫翊伝(付、孫松伝)
 孫匡伝
 孫韶伝
 孫桓伝 
張顧諸葛歩伝第七
 張昭伝(付、張奮・張承・張休伝)
 顧雍伝(付、顧邵・顧譚・顧承伝)
 諸葛瑾伝(付、諸葛融伝)
 歩騭伝(付、歩闡伝)
【正史 三国志7】 呉書Ⅱ
張厳程闞薛伝第八
 張紘伝(付、張玄・張尚伝)
 厳畯伝(付、裴玄伝)
 程秉伝
 闞沢伝(付、唐固伝)
 薛綜伝(付、薛珝・薛瑩伝)
周瑜魯粛呂蒙伝第九
 周瑜伝
 魯粛伝
 呂蒙伝
程黄韓蒋周陳董甘凌徐潘丁伝第十
 程普伝
 黄蓋伝
 韓当伝
 蒋欽伝
 周泰伝
 陳武伝(付、陳脩・陳表伝)
 董襲伝
 甘寧伝
 凌統伝
 徐盛伝
 潘璋伝
 丁奉伝
朱治朱然呂範朱桓伝第十一
 朱治伝
 朱然伝(付、朱績伝)
 呂範伝(付、呂拠伝)
 朱桓伝(付、朱異伝)
虞陸張駱陸吾朱伝第十二
 虞翻伝(付、虞汜・虞忠・虞聳・虞昺伝)
 陸績伝
 張温伝
 駱統伝
 陸瑁伝
 吾粲伝
 朱拠伝 
陸遜伝第十三
 (付、陸抗伝)
呉主五子伝第十四
 孫登伝
 孫慮伝
 孫和伝
 孫覇伝
 孫奮伝
賀全呂周鍾離伝第十五
 賀斉伝
 全琮伝
 呂岱伝
 周魴伝
 鍾離牧伝
【正史 三国志8】 呉書Ⅲ
潘濬陸凱伝第十六
 潘濬伝
 陸凱伝(付、陸胤伝)
是儀胡綜伝第十七
 是儀伝
 胡綜伝(付、徐詳伝)
呉範劉惇趙達伝第十八
 呉範伝
 劉惇伝
 趙達伝
諸葛滕二孫濮陽伝第十九
 諸葛恪伝(付、聶友伝)
 滕胤伝
 孫峻伝
 留賛伝
 孫綝伝
 濮陽興伝
王楼賀韋華伝第二十
 王蕃伝
 楼玄伝
 賀邵伝
 韋昭伝
 華覈伝


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