三国志 人物縦横談

高島俊男 著
大修館書店


 数年前に吹き荒れた「三国志ブーム」、日本人は昔からよっぽどこのお話が好きとみえて三国志の解説本がたくさん出版されています。私も何冊か読んでみましたが、内容はいまいち好みでないものが多かったです。単なる登場人物の解説であったり、名文句の解説であったり・・・。ということで、最近はこの手の本には手を出していなかったのですが、先日読んだ『水滸伝と日本人』という本が結構おもしろかったので本書を読むことにしました。
 題を見ただけですと単なる人物の解説本みたいなのですが、そこは高島先生、ひと味違っています。本書は一般向けの解説なので、固い感じで書かれているのですが、学校で講義を受けているような雰囲気があって話の途中で脱線しておもしろいところへ飛んでいったりします。
 一例として馬騰の章の脱線を紹介しましょう。
 その名が記録にあらわれるのは中平四年(187)である。『後漢書』「霊帝記」、涼州刺使耿鄙<(こうひ)>の敗北と漢陽太守傅燮<(ふしょう)>の戦死を記したあとに、「扶風の人馬騰、漢陽の人王国、並びに叛し三輔を寇す」とある。また「董卓伝」に、韓遂らが耿鄙を殺したことを記したあと、「鄙の司馬扶風の馬騰もまた兵を擁して反叛す」とある。兵隊になった馬騰は、昇進して耿鄙配下の部隊長クラスになっていたのである。中平四年に至って叛乱し、韓遂らと連合した。なお扶風は馬騰の父の原籍である。扶風の人である父が隴西へ流れてきて、姜人の女に生ませたのが馬騰で、だから馬騰は隴西で生まれ、成長したのだが、やはり扶風の人という。それがならわしである。──ちょっと話が横道に外れるが、小生1980年に台湾へ行った時、台北の大学に在学する学生と偶然知り合って話をしたことが何度かあった。無論それぞれ別々の場合で、男も女もあった。「おうちはどこ?」とたずねる。それは無論、どこから台北へでてきたのかきいたのである。生まれ育った所、現在両親のいる所をきいたつもりである。ところが相手は当然のごとく「山東です」とか「湖南です」とか答える。どこで生まれようと現在どこに家があろうとそれらはすべて一時的なものであり、根っこはあくまで山東なり湖南なりにあるという意識らしい。史書に出てくる「どこそこの人」というのもすべてそういう合意なのであるから気をつけないといけない。
 本書に出てくる人物たちは以下の通りです。
  1. 混沌<(カオス)>のはじまり
    董卓 / 呂布
  2. 曹操をめぐる勇士傑物
    夏侯惇 典韋 許褚 / 荀ケ 華歆 / 陳宮 華佗
  3. 北方の勇者たち
    公孫瓉 <附>劉虞 張燕 / 袁紹 / 沮授 <附>田豊 許攸
  4. 献帝とその周辺
    献帝 / 董承 / 伏皇后
  5. 荊州の人々
    劉表 / 蒯越 <附>蔡瑁 / 黄祖 / 徐庶
  6. 西方の暴れ者
    北宮伯玉 <附>辺章 王国 / 傅燮 / 馬騰 <附>馬超 / 韓遂
  7. 孫権の家臣
    張紹 <附>顧雍 / 周瑜 / 魯粛 / 闞沢
  8. 劉備の配下
    龐統 / 関羽 / 張飛
  9. 益州・漢中の人たち
    張松 <附>法正 / 張魯 <附>劉焉
  10. 女たち
    丁夫人 / 呉夫人 <附>孫夫人 / 甄皇后 <附>郭皇后 毛皇后
  11. 四大スター
    曹操 / 孫権 / 劉備 / 諸葛亮
 本書では上に書いたようにいろいろと横道にそれる所が気に入りました。人によりおもしろいと感じるかどうかは違うでしょうが、以下に私がおもしろいと思った部分を紹介しましょう。

【公孫瓉の記事より】
 黒山賊は袁紹に負けてから勢力が衰えた。曹操が冀州を定めると張燕は全軍をひきいて降り、平北将軍に拝せられ、安国亭侯に封ぜられた。
 盗賊と群雄とは実質的にはそうちがうものではない。ただ形式がちがう。「張燕伝」に引く『典略』に「黒山・黄巾の諸帥はもと冠蓋に非ず」というように、大将の素性がちがうのである。張燕のように何の資格もない者が勝手に部下を集めて武力集団を作れば、これは「盗賊」である。公孫瓉のように、朝廷の官僚として任地を与えられた者が、その任地をはるかにハミ出して他人の任地を占領したり支配したりするのは「群雄」である。
 群雄のほうが有利とは必ずしも言えない。要は身の処しかたである。公孫瓉のように、いくら強くてもムチャをやりすぎると惨めな最後をとげる。張燕のように身の程を知って、一番将来の確かそうな人のところへ「盛業をお助け申し上げたい」と降参して出れば、栄位を与えられ爵号をたまわって子孫に伝えることができる。盗賊張燕の子や孫は堂々たる貴族である。
【曹操の記事より】
 曹操孟徳なんて言いかたはない。どこで聞いてきたのか知らないが、劉備玄徳なんて言いかたもない。
 名前(ないし呼称)のことは、むずかしいのみならず大事なことである。中国人は昔から人をどう呼ぶかによって、その人に対する評価をあらわすからである。そういうことはわが国にもある。「羽田総理が・・・」「羽田首相が・・・」といえば普通だが、「羽田が・・・」と言ったらおだやかではない。中国ではそれがもっと複雑なのである。
(中略)
 名は重大なもの大事にとっておくべきものだから、通常は使用しない。通常に使用する名前が<(あざな)>である。曹操の字は孟徳、劉備の字は玄徳、諸葛亮の字は孔明である。
(中略)
 姓と字をくっつけることはごく普通である。曹孟徳、劉玄徳、諸葛孔明、という呼び方である。ただし、ある人は姓名、ある人は姓字にして、曹操、劉備、諸葛孔明、と並べたら、これはおかしい。
             *
 若いころ、あるいは親しいあいだがらでは字で呼び合う。曹操が年少のころの友達は曹操に対して「孟徳」と呼んだ。同様に諸葛亮の友達は彼のことを「孔明」と呼んだ、というわけだ。
 やがて官職がつけば官職で呼ぶ。封建されれば封号で呼ぶ。さらに、死んで諡号が送られれば諡号で呼ぶ、ということになる(諡号というのは当人が死んだあとでつく名前。わが国の近時で言えば「昭和天皇」というのがそれである)。
 もし曹操が高官になってからも彼のことを「孟徳」と呼んでいる人があったとすれば、それは必ず子供のころのガキ仲間か、少年時代の勉強仲間である。そうでもないのに「孟徳」と呼んだら、それは大変失礼である。もし曹操に向かって「操」と名を呼ぶ者があるとすれば、それは必ず、負けてつかまってこれから殺される敵将である。つまり百パーセント殺されるとわかって罵る時のみである。
(注)君主は家臣のことを名で呼びます。ですから、皇帝が曹操のことを「操」と呼んでもこの場合おかしくはないでしょうね。あと、上記のことは史書の中でのことなので誤解なきよう・・・
【諸葛亮の記事より】
 いったい諸葛亮は何が目的で何度も何度も北征の軍を出したのか。「出師表」にハッキリ表明してある。「北の方中原を定め、漢室を興復し、旧都に還る」。魏を打ちほろぼし、洛陽の都にもどって漢王朝を継続する。つまり、後漢初代の光武帝がやったようなことをもう一度やる、というのである。しかしこれは、理想の表明、つまりたてまえを述べただけのものであって、現実にはとても無理である。中原どころか潼関の東へ出ることさえ無理である。
 しからば諸葛亮は、どういう現実的成果を達成しようとして軍を率いて北へむかったのか。
 思うにその目的は二つあったろう。
 一つは国家の存在理由を実体化して見せることである。
 いったい劉備や諸葛亮が建てた国は、陳寿が「蜀」と呼んで以来、なんとなくそれが国名みたいになってしまったが、実は蜀というのはその国があった土地の地名であって、国名は「漢」である。つまりこの国のたてまえは、「わが漢は、天下唯一の合法政権である。しかるに現在は、首都洛陽を中心とする中原一帯が非合法の偽政権である曹氏一族によって暴力的に占拠されるという不正常な状態にある。ために正統政権である漢が西南の僻陬に屈辱的に逼塞しているが、これは臨時に腰掛的にここにいるだけであって、いずれは正義が勝ってわれわれは天下の中心にもどるのである」ということになっている。であるから、蜀にじっとしていてはおかしいのである。時々は、勝ってくるぞと勇ましく誓って国を出て、そこらをぐるっとまわってこなければいけないのである。
 もう一つは、北辺の不安の解消である。もし魏が蜀をつぶしに来るとすれば、それは必ず北から来る。だから蜀の勢力範囲のすぐ北の所は是非抑えておきたい。そうすれば枕を高くして寝られる。明治の日本の政治家や軍人が、日本が攻められるとすればそれは必ず朝鮮半島からだから是非朝鮮半島だけは抑えておきたい、と考えたのと同じである。
 という感じで小説とは異なるイメージの人物像を書いておられます。
 また、いろいろな脱線記事もおもしろいので興味のある方は読んでみて下さい。

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