琉球の風

陳舜臣 著
講談社文庫


 このところ、なぜか中国の明〜清朝の時代を背景とした本を読んでいます。本書の舞台は題名のとおり琉球(沖縄)で、時代は日本で言うと関ヶ原の戦いが終わった頃〜家光が鎖国令を出す頃です。中国でいうと、明朝がかなり怪しくなってきた頃から清朝が興る頃までです。
 本書を読むきっかけは沖縄の話題で盛り上がったときに、どなたかに紹介していただいたことでした。私は琉球王朝に関してほとんど知らなかったので興味深く、聞きかじりで「うちなんちゅう」とか「やまとんちゅう」とかという言葉だけは知っていましたが、それからイメージする琉球の歴史は哀しみでいっぱいであることがわかりました。

 琉球は明に従属しながらも独立した王国で、ちょうど朝鮮と同じような立場でした。中国には冊封<(さくほう)>という制度があり、冊を以て封爵を授けるということをしていました。つまり、王が交代するたびに冊封使を迎えて王と認定してもらうだけで内政干渉もないのです。そして、琉球からは進貢と言う形による交易で大きな利益を得ることができました。

広辞苑にはこう書かれています。
りゅうきゅう【琉球】リウキウ
@沖縄(琉球諸島地域)の別称。隋書に「流求」の文字が見え、わが国では古く「阿児奈波」または「南島」と呼んだ。一五世紀以降日本・中国に両属の形をとり、一七世紀初頭島津氏に征服され、明治維新後琉球藩を置き、やがて沖縄県となる。

 琉球第七第国王尚寧<(しょうねい)>は即位して17年経っていましたが、明の冊封は受けていませんでした。冊封を請う使者、つまり請封使を派遣したのは即位5年後でしたが、それは秀吉の朝鮮出兵の最中の頃でした。明にとっては非常事態であり、請封から6年経ってやっと冊封使派遣を決め、その冊封使が琉球に到着したのは、前回の冊封から27年後のことでした。冊封とかそれに対する謝恩とか今から見ると大げさですが、当の琉球にとってみれば半分自分たちのためだったのですね。
 琉球王朝が開かれて200年、戦争もなく、兵士もいないという平和な国で、交易を行って成り立っていました。しかし、いつまでも平和は続きませんでした。北の方から不穏な動きが出てきたのです。島津藩の琉球入り(侵攻)が確実な情報として入ってきました。明との関係は上に書いたように良好でしたが、島津は自分の附庸国とみなしていたのです。関ヶ原の合戦などにより島津は疲弊していましたが、平和になり国力が付いてきたところで本格的に琉球を攻め取ろうとしていたのです。島津が欲していたものは交易で手に入れられる利益でした。

 琉球の三司官の一人、謝名親方<(じゃなうえーかた)> 鄭迵<(ていどう)>は島津の情報を手に入れるとともに、抵抗するための準備を始めます。自分の資産を使って鉄砲を買い入れ、戦争の経験のないものに武術の訓練をさせます。一方、琉球の親とも言える明に兵を派遣してもらうべく明に配下を送り工作をするのですが、これは無理でした。明は秀吉の朝鮮出兵に対し援軍を送って国力が著しく疲弊していたのです。
 島津は大御所徳川家康に対して「大島入り」(奄美大島への出兵)の許可を得ようとしますが、家康は「琉球入り」にします。このあたりは老獪な家康の面目躍如です。島津では長期戦に耐えられるほどの財力はないので、琉球入りとなると短期決戦しか道はありませんでした。琉球とすれば、3ヶ月ほど持ちこたえれば相手は引き下がるしかないのです。

 島津の渡海衆3000人を乗せた船が山川港から出発して反抗らしい反抗もしない大島を制圧したのは4日後でした。琉球の首里王府では抗戦か和睦かの会議が開かれます。尚寧の「ひと太刀も浴びせずに国を亡ぼせば、祖宗の霊に相すまぬことである」ということばで、主戦論の巨頭である謝名親方が一言も発言するまでもなく、抗戦が決定されます。
 しかし、これまで戦争もしたことのない琉球は、まだ戦国時代から抜けきっていない島津軍の相手ではありませんでした。多少の損害を与えたものの、一方的な敗戦でした。尚寧は捕虜となり、主戦を唱えて最も激しい抵抗をした謝名親方は戦犯として捕らわれてしまいます。そして薩摩へ連れて行かれます。
 島津の属国となった琉球ですが、人それぞれに国の行方を探ります。謝名親方はあくまでも島津に降らないため処刑されてしまいます。大御所家康は彼の名を知っており、投降を勧めるのですが謝名親方は文天詳と同じ道を行くと言うのでした。
 謝名親方の配下の啓泰<(けいたい)>は明に反抗して独立を謀っていた謝汝烈<(しゃじょれつ)>と協力して南海王国を建てようとします。この頃になると明朝はいよいよ末期的となり、危うい状況になっていました。また、ヨーロッパ列強のアジア進出は激しく、それに対抗するには台湾を押さえる必要があると考えました。日本からも台湾を狙う勢力があり、海の上では波が高くなっています。
 啓泰は南海の覇者、鄭芝竜<(しりゅう)>と結び、平戸で生まれたその息子に福松と名付けます。この子が後の有名な国姓爺<(こくせんや)>成功<(せいこう)>です。
 啓泰の事業は次第に鄭成功集団の中に組み込まれるようになりました。啓泰は琉球を含む南海の現実世界の上に、透明な膜のように交易王国を貼り付けるのが念願だったのです。これは琉球が生きていく道を交易に求めた結論でした。一方、鄭成功は交易によって集団の体力を養い、その力で「反清復明」を行おうとしていたので、交易重視という重なる部分があったために協力できたのです。

 結局、琉球を中心とした南海王国は実現しませんでした。琉球は裏で島津の支配を受けながら、清朝に冊封を受けることになりました。台湾にいたオランダ人を追い出して台湾を占拠し、南海の制海権を押さえていた国姓爺鄭成功は清に攻め込みますが、結局南京を抜けずに引き返しました。日本の幕府に援軍を要請しましたが、幕府は断ります。鎖国令が出されて10年が経っていました。

 一 怒濤の巻  二 疾風の巻  三 雷雨の巻


戻る