菜の花の沖

司馬遼太郎 著
文春文庫


 本書の主人公は江戸時代後期、淡路の貧しい農家に生まれた嘉兵衛という若者です。その生まれた境遇は悲惨なものでしたが、海の男として身を起こし、ついには当時未開で原住民(アイヌ)が過酷な状況に置かれていた蝦夷<(えぞ)>を拓いた偉大な商人に成長します。そして、一介の商人でありながら当時一触即発であった日露間を救うという物語です。
 司馬遼太郎さんの作品は、「こんな快男児が日本にいたのか!」と感じさせるものが多いですが、本書もまさにその通りでした。主人公は船乗りなので、自分では書物は残しませんでしたが、いろいろな資料は残っているそうです。
 この作品を読むまでは北方領土のことはあまり知らなかったのですが、いろいろと知らない地名が出てきますので地図帳を見ながらの読書をして、位置関係とかちょっとはわかってきました。途中、延々とロシアの事情とかヨーロッパの事情とかがでて来ます。私は西洋史は苦手でしたが、こちらもちょっとだけ親近感を持ちました。

主人公の嘉兵衛については広辞苑にも載っています。

たかたや‐かへえ【高田屋嘉兵衛】‥ヱ
江戸後期の廻船業者。淡路の人。一水夫から身を起して酒田・松前の航路を開き、のち幕府の御用船頭。しばしば択捉(エトロフ)・国後(クナシリ)に渡って漁場を開き、一八一二年(文化九)露艦に捕えられてカムチャツカに到り、翌年帰国、ゴロウニン釈放など日露間の折衝に当った。(1769〜1827)
 淡路の都志<(つし)>の浦の本村に「高田サン」と呼ばれる格式のある家がありました。その分家の弥吉の長男として生まれたのが菊弥(キッキャ)、後に元服して嘉兵衛でした。彼は腕白が過ぎて村の大人たちからも好かれていませんでした。悪童というより、この子自身の尺度で相手を悪だと思うと、気が狂ったように殴りつけてしまう、相手が大人であろうと会釈をしなかったのです。
 キッキャは11歳になったところで、自ら口減らしの為に本村の隣の新在家で商売をしていた叔父のところへ奉公に出ます。そこで成人となり、嘉兵衛という名をつけてもらいます。成人すると、「若衆宿」という組織に組み込まれるのですが、嘉兵衛は新在家の若衆宿ではなく、本村の若衆宿に入るのです。これが大きな問題を生むのです。各若衆宿は非常に対抗意識が強いので、新在家にいる嘉兵衛が本村の若衆宿に入るというのはとんでもないことでした。
 結果、新在家で問題をいわれのない言いがかりをつけられてトラブルを起こしてしまいます。各若衆宿は対抗意識は強いものの、お互いを尊重するという風習があり嘉兵衛は本村で村八分にされてしまいます。そのトラブルというのが、新在家の若者が憧れているマドンナという感じのおふさの所に「呼ばい」をしているという疑いをかけられ、新在家に居られぬようにするために「いりこ」泥棒の濡れ衣をかけられてしまうのです。無実の嘉兵衛はいりこ泥棒の現場を押さえ込み、主犯の駒吉を縛り上げて衆目のもとにさらしたのでした。悪いのは駒吉でしたが、駒吉に恥をかかせた嘉兵衛が悪いということになったのでした。
 嘉兵衛はそれまでおふさと話したこともなかったのですが、腹をくくって、本当におふさの所へ呼ばいをします。そんなことがばれると本当に殺されてしまいます。逃げるように都志を「村抜け」して兵庫の堺屋へ出発するのでした。出発の前に、おふさには「後日、その気があるなら追って来い」と言い残しました。ちなみに、おふさもその後村抜けして嘉兵衛のもとへ来ます。

 堺屋では船乗りとして働くことになります。この頃、兵庫の廻船問屋御影屋松右衛門と知り合います。彼はおもしろい人で公共思想があり、工夫創意を好む人で、工夫を楽しむということで後に幕府から「工楽」という姓を賜っています。以下、彼の残したことばです。
人として天下の益ならん事を<(はから)>ず、碌々<(ろくろく)>として一生を過さんは禽獣<(きんじゅう)>にもおとるべし。<(およそ)>其利を窮るに、などか発明せざらん事のあるべきやはと。金銭を費し工夫せられし事少なからず。
 兵庫には北風荘右衛門という豪商がいました。船乗りを大切にすることで、船乗りの間では神様とも思われていた人物でした。嘉兵衛は荘右衛門にその才を認められ、大きな仕事を任されるようになります。嘉兵衛の夢は自分の船を持つことでしたが、ひょんな事からこの夢が実現するのです。難破して廃船になった船を安い値段で手に入れました。

 嘉兵衛の夢はこの頃の海運の花形である北前船を持ち、松前(北海道)との交易をすることでした。しかし、北前船は千石積みの大きなもので、日本海の荒波に耐えるようなものでなくてはなりませんでした。嘉兵衛の手に入れた古船では北前船にはなりえず、この夢を叶えることはできませんでした。しかし、嘉兵衛は都志から兄弟を呼び寄せ、船を巧みに動かして次第に地力を蓄えてゆきます。そして、ついに夢をついに叶えるのです。辰悦丸という千五百石積みの巨船を建造し、以降この船を中心にして大きな商売をしていくのです。

 この頃、蝦夷地を支配していたのは松前藩でした。この藩は不思議な藩で、米を作る代わりにこの地の海産物を売ることで成り立っていました。原住民(アイヌ)を人とも思わぬような苛烈な扱いをして酷使していました。そして、この事を他藩や幕府に知られることを恐れ、厳重な秘密主義を取っていました。
 嘉兵衛は辰悦丸を使い、ついに憧れの松前での交易を実現させます。それまで夢にも見てきた蝦夷の地を踏むのですが、松前藩の役人に手酷い仕打ちを受けます。この頃、北からはロシアが侵攻してくることを想定して、幕府は蝦夷地の直営を始めようとしていたのです。そして、蝦夷地の調査を始めていたのですが、それにより松前藩は危機を感じていたところに嘉兵衛がやってきて、幕府の隠密と思われたのでした。
 幕府は蝦夷地の経営に対してしっかりした考え方を持っており、ついに東蝦夷を幕府直轄にします。その方針は単に利益を上げることではなく、ロシア侵攻を想定してアイヌの人々を慰撫しておこうということでした。嘉兵衛は幕閣たちと知り合うことにより、アイヌの人々の状況を良くしたいと考えます。それは、これまで松前藩が続けていた方針を180度変えて、アイヌを被支配者ではなく取引の相手として見ることでした。

 幕府の考え方と、これまで自分が抱いていた蝦夷地への憧れが一致し、嘉兵衛は以降幕府と連携を取るようになります。択捉<(エトロフ)>島のまわりは良い漁場でしたが、間に厳しい潮流があるために蝦夷地から渡ることは非常な困難でした。
 この航路を見つけるよう依頼された嘉兵衛は、ついにその潮道が3本であることを発見し、これ以降、択捉島の開発は順調に進んでいきます。ここで取れた海産物は米に換算して15万石という大きなものでした。アイヌたちもやっと人並みの生活ができるようになります。

 しかし、ロシアは千島列島で取れるラッコの毛皮を狙って択捉島の隣、ウルップ島まで来ていたのでした。ロシアはヨーロッパで高く売れるシベリアの黒貂やラッコの毛皮を得て国力を高めていたのでした。そして、極東の様子が次第に分かってきて、日本に交易を求めます。この目的は千島で食糧などを確保することでした。しかし鎖国政策を取っていた日本は、その使者レザノフを長崎沖に6ヶ月間停泊させた後に無理やり追い返してしまいます。
 レザノフは収まりません。「日本をやっつけろ」という過激な思いを持つのです。樺太経由でロシア領アラスカに戻ったレザノフは二人の海軍軍人を雇い、蝦夷地を攻撃させるのです。これまで平和を貪っていた日本の武士は、なすところなく侵略されてしまいます。
 レザノフに続いてロシア皇帝の親書を携えてゴローニンという海軍少佐が蝦夷地へやってきます。しかし、前回のロシア船からの攻撃に怯える日本側からは大砲が何発も発射され、話し合いの余地がないことを悟り、測量のみを行って帰ることにしました。しかし、測量をしているゴローニンを卑怯にも騙して日本は7人を捕縛してしまいます。
 日本とロシアは恨みの連鎖をのばしていきます。ゴローニンの消息を調べようとしていたロシアの軍艦は、てっとり早く日本の状況を知るために、近くを通る日本の船を拿捕して載っている日本人に聞こうとしました。最初の船は辛くも逃げましたが、次に出会った船はうむを言わさず捕らえられてしまいました。この船を指揮していたのが嘉兵衛だったのです。嘉兵衛はことばもわからず状況もわからないなりに、彼の下の水主<(かこ)>達を守るためにロシアの船に自ら拉致されていきます。結局嘉兵衛とその下の5人がカムチャツカへ連行されていきます。

 この後は、嘉兵衛がいかにロシアの将校と友情を結び、しかも鎖国体制に凝り固まった日本との間に立ってゴローニン事件を解決するかというところですが、これはお楽しみにしておきましょう。

 本作品の中には嘉兵衛を通して司馬遼太郎さんのいろんな考え方がでてきて興味深いです。そのなかで、古代日本という国の性格について書いてあるところを紹介しましょう。
(前略)
 以上が日本の古代というものである。
 その基本イメージは、稲作社会が、ローラーで地ならしするようにひろがっていくいうものであった。つまりは稲作という共同作業を必要とするムラがふえてゆく。そういう「稲作ムラ」特有の秩序感覚や対人関係、上下の倫理、さらには風俗、それに稲作儀礼という土俗宗教も、一ツ型としてふえてゆく。感情まで類型化される。その類型がふえてゆき、ふえることによって、似たような人間関係−民族−ができあがるのである。  つまりは、その類型にあてはまらない地域を、外とした。
「外」
 が、外国をさし、異民族をさすという近代的な概念ではなく、漠然とした感覚の上でのことである。
 律令時代、中央・地方の政権はときに遠くへ兵を出して「征服」したとされるが、実態としては、
 −稲作のすすめ。
 というべきもので、彼らが降伏して稲作をはじめればそれでよしとされた。極端にいえば律令政権は「稲作を勧める公社」というべきであり、そのすすめに応じない集団を外の者とし、輸入した漢字をつかって、<(えびす)>とした。これらによって、律令初期、奥羽に多数いた非稲作者は稲作社会に編入され、その地方が社会の一部になり、遠い<(、、)>地から近い<(、、)>地になるのである。
(「松前」より)

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