項羽と劉邦

司馬遼太郎 著
新潮社文庫(全3巻)


 今回私が読んだのは「項羽(こうう)と劉邦(りゅうほう)」です。
 この本の存在はかなり前から知っていましたが、なぜか手を伸ばすことができませんでした。しかし、三国志宮城谷さんの本を読みながら段々と気になる存在になってきていました。そういうわけで、「読みたい、読みたい」というものでしたのでかなり期待は高かったのですが、さすがに司馬遼太郎さん。私の勝手な期待に見事に応えていただきました。

 上巻の裏表紙に書かれています。
 紀元前3世紀末、秦の始皇帝は中国史上初の統一帝国を創出し戦国時代に終止符をうった。しかし彼の死後、秦の統制力は弱まり、陳勝・呉広の一揆がおこると、天下は再び大乱の時代に入る。―― これは、沛(はい)のゴロツキ上がりの劉邦が、楚の猛将項羽と天下を争って百敗するも、ついに楚を破り漢帝国を樹立するまでを通し、天下を制する「人望」とは何かをきわめつくした物語である。

 乱世に登場した劉邦と項羽はどう見ても項羽の方が一枚も二枚も能力は高いのですが、劉邦の良さは人間的な魅力が大きいということです。司馬さんは「ちょっと類のない可愛気がある。このことは稀有なものとして重視してもよいのではないか」と書かれています。つまり、まわりの人間はその魅力に惹かれて彼のために動くのですね。
 一方、項羽の方は生まれも良く、武力にも優れていましたので、常に勝ち続けていました。自分の味方とか自分を頼ってくる者は助けるという侠気はありましたが、それ以外の者に対しては冷酷でした。秦を破ったとき、降伏した兵20万人を阬(あなうめ)にしてしまいます。また、この頃の常識でありましたが、征服した国の民衆に対し略奪・暴虐・強姦を尽くしていました。これが兵士の楽しみであり、やる気を上げるためであったわけです。一方の劉邦は秦の帝都咸陽(かんよう)を征服したときには軍紀をただしてこれを禁じ、よく治めました。農民上がりの劉邦はこれら征服される者たちの気持ちがわかっていたのでしょう。これらを通して、民衆は「王となるなら沛公がよい」という支持の気持ちを持つことになるのです。

 劉邦に百戦した項羽も最後の戦いで敗れてしまいます。しかし、最後に垓下(がいか)で一勝を上げて逆転するのです。有名な「四面楚歌」という言葉はこの時の故事からできました。項羽は自分の命運が尽きたことを感じて、決死で漢軍の包囲網を抜け出して故郷である楚に帰ろうと思い、そこでその場に生き残っていた僅かな者全てを集めて最後の宴を開きます。しかし、城のまわりをびっしりと敵兵に囲まれている状況で、それを脱出するためには愛する虞姫(ぐき:虞美人)を連れていくのは不可能でした。項羽はこの宴の席で有名な「垓下の詩」をよみます。

力抜山兮気蓋世  力は山を抜き 気は世を蓋(おお)ふ
時不利兮騅不逝  時に利あらずして 騅(すい)逝(ゆ)かず
騅不逝兮可奈何  騅逝かざるを 奈何(いかん)すべき
虞兮虞兮奈若何  虞や虞や奈(なんじ)を若何(いかん)せん

 項羽という英雄が虞に「死んでもらいたい」と言っているのです。虞はこの詩をうたいながら舞い、何度もうたいました。最後に項羽に刺されるのですが、この場面は涙なくては読めません。

 このあたりから宮城谷昌光さんの「長城のかげ」とクロスオーバーしています。両方読むと司馬さんと宮城谷さんの違いなどがあって面白いです。

     

(以下、2006/06/11 追記)

 5年ぶりに読み直しました。途中、北方さんの『水滸伝』に寄り道しましたので、今回は4ヶ月ほどかかってしまいました。
 しかし、やっぱり司馬さんの作品は面白いです。前回読んだあと、かなり中国歴史小説を読みましたので今回は少し印象がかわりましたが、やっぱり面白かったのには違いがありませんでした。
 なるほど、と思ったことに張良の「侠」についてのくだりがありました。張良が罪を犯した項伯を匿ったというところですが、私が中国歴史小説に惹かれるもののことをいわれたような気がしました。
 張良にとって項伯は親しいというほどの仲ではなかった。これをかくまうことは利害によるものでも情誼によるものでもなかった。
 ――自分には侠というものがある。
 という自他への証しというべきものであった。それだけに、この行為ははげしかった。
 侠という。
 この倫理は、男伊達、世話好きといったようなものではなく、のちの日本にも欧州にも類似した精神が見あたらない。立場はちがうが、質としては、16世紀のイエズス会の殉教精神にはげしさだけは似ている。
 戦国という乱世は、すでにのべたように、古代的な商品経済の隆盛時代でもあり、活溌な思想の時代でもあった。さまざまな要素が入りまじって、中国史上、類がないほどのあざやかさで個人を成立させた。その後、このあざやかさがおそろしいほどの勢いで褪色するのだが、ともかくも戦国から秦にかけて、王朝はたのむに足りず、むしろ秦時、絶対権力が餓虎のように人を害ってきたため、個人がたがいに横に結んで守りあわざるをえなかった。
 いったん結べば、すべての保身、利害の計算をすてて互いに相手を守りあうという侠の精神が作動した。侠には理屈がなく、それそのものが目的だった。中国にあってはその侠の精神と習俗ばかりはさまざまに形や色を変えて後世まで伝えられ、この大陸の精神史における別趣の塩分となっている。


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