香乱記

(2004/04/03追記)
 待望久しかった本書がやっと刊行され、読むことができました。事前に大きな期待を持って待っていましたが、それを裏切らない作品でした。

 春秋戦国時代にピリオドを打って中国を統一したのは秦の始皇帝でした。しかし、始皇帝はあまりに早く世の中を変えてしまい、大きなひずみを作りだしました。その結果、彼の死後には大きな混乱が起こり、「楚漢戦争」と呼ばれる中国の人口を半減させるほど激しい乱世に戻ってしまいます。
 本作品の主人公は、この大動乱期にいかなる権力にも与せず勇敢に立ち向かった男、田横<(でんおう)>という英雄です。
 宮城谷さんは上巻の帯にこう書かれています。
田横はぼくの理想像です。反権力的で、どんな相手にも屈しない。こんなに男らしい男っていない。デビュー以来、夏王朝から時代を下って書き進み、そうすればいつか田横に至るだろうなと思っていた。やっと田横にたどり着くことができました。  (著者のことば)
 田儋<(でんたん)>田栄<(でんえい)>・田横は田氏三兄弟と呼ばれ、田横はその末弟です。戦国時代の斉王・田氏の末裔ですが、始皇帝が天下統一を果たし、斉は滅亡、祖父の代に野に下り平民として暮らしていました。
 ひょんなことで3兄弟は著名な人相見の許負を救いますが、そのとき3人とも将来王になると予言されます。天下統一を果たした始皇帝の秦王朝は王を認めていませんでした。秦が隆盛なこのとき、その予言はとても信じられるものではありませんでしたが、田横は許負に「七星を捜しなさい」という謎めいたことばを受けます。
 田氏三兄弟は「狄の田氏」として尊敬を受けていましたが、罠に陥れられ田儋・田栄は獄に入れられてしまいます。それを逃れた田横は必死で二人を救うために動きますが、それが実を結ばないのになぜか二人は放免されます。一難去ってまた一難、田氏を除きたいと考えている狄県の役人に再び罠にはまってしまいます。生命を狙われて斉を出奔せざるを得なくなった田横は、始皇帝の太子・扶蘇の元に至り厚遇を得ますが、始皇帝死去により天下はまた乱れます。

 始皇帝死後、宦官・趙高の陰謀により太子・扶蘇は自害し、胡亥が二世皇帝となります。その陰謀の中、扶蘇に憎まれている丞相の李斯は趙高に逆らうことができませんでした。
 趙高と扶蘇による政治は苛烈を極め、各地に反乱が起こります。その中で最も優勢だったのは陳勝・呉広の乱で、その将軍周文は秦の都咸陽に迫りますが、突然現れた軍事の天才・章邯に破られてしまいます。ちなみに、現在でも中国では新しいことを始めることを人に勧めるとき「陳勝呉広になりたまえ」というのだそうです。
 各地に王が出現する中、斉では田儋が王室を再興して王となります。これで許負の予言の一つは実現したことになります。しかし、秦軍に包囲された魏王(魏咎)のもとにいる田横を救うため、魏と斉の連合軍を率いた田儋は章邯の奇計にはまり、殺されてしまいます。魏咎は降伏し、章邯に自らの命と引き替えに遺民を迫害しないことを認めさせます。田横はその時に魏城から逃れました。

 ついに秦が滅亡します。二世皇帝胡亥は賊が都に迫っていることを聞き、その元凶である趙高を除こうとします。殺されかけそうになった趙高は逆に皇帝を誅してしまうのです。趙高は公子嬰を立てますが、皇帝ではなく秦王とします。秦王嬰は自分も趙高に殺されるのではないかと考え、謀略をもって趙高を殺します。しかし、その翌月には咸陽に入った劉邦に降伏するのですが・・・。
 斉では田儋の亡き後、その子田市が王となっていました。項羽が攻めてくることを知った田市は、あろうことか項羽をおそれて田栄と田横に刺客を放ちます。そして、項羽の恫喝に屈して臨淄<(りんし)>を放棄するのでした。田栄は斉を守るために自らの手を穢して項羽に屈した田市を伐つことを決意しました。そして田栄は斉王となり、許負の予言の二つ目が実現しました。
 項羽は国中を破壊していきますが、ついに斉へ攻め入り田栄は討たれてしまいます。田横は田栄の子である若い田広を斉王に立てます。田広は叔父である田横に王位を譲ろうとしますが、田横は聡明で素直な田広が父の遺志を継ぐべきだと考えていました。
 楚漢戦争は劉邦の勝利に終わりました。劉邦の将軍、韓信は東へ向かい魏・趙を攻め落とします。そして、ついに斉も攻め落としますが、その時に行ったのはだまし討ちでした。斉は漢と同盟を結ぶことにしていたので、韓信の軍が来ても攻撃しませんでしたが、韓信はそれを一方的にやぶったのです。その中で田広は戦死してしまいます。
「斉王は戦死なさったようです」
 と、岸当におしえられた田横は、自身が地中に<(しず)>んでいくような虚しさをおぼえた。田広は次代のための才器であった。人民のためになくてはならぬ英主ではなかったのか。
 ――広は、天に棄てられたのか。
 田横はあきらめません。虐殺を繰り返した項羽にも、裏切りを繰り返す劉邦にも従う気はありませんでした。あくまでも信義を守っていくつもりでした。韓信によりすでに斉のほとんどを平定されていましたが、自ら斉王に就きました。許負の予言はすべて実現しました。
 田横は膠東の地でゲリラ戦を行いますが、ジリジリと漢軍に追いつめられていきます。しかし、それが信義の道を守る田横の生き方でした。

 本作品を読んで、これまで『項羽と劉邦』に代表されるようなこの時代の見方が変わりました。楚漢戦争では劉邦の大きな器量と彼に引きつけられたすばらしい人々によって乱世を集結させたというイメージを持っていましたが、それとは違う見方もあるということです。田横のように崇高な精神を持った人間を中心に据えると、劉邦も項羽も、そして彼らのまわりの人間たちも陳腐に見えてきます。
 本書に登場する大量虐殺魔の項羽、信義がなく平気で人を裏切る劉邦、そしてけっして英雄とは呼べぬ韓信、刎頸の友を裏切る張耳・・・
 これまで英雄と思っていた彼らに比べ、決して人を裏切らず民のための政治を目指した田氏三兄弟のみごとなこと。最後に近くなるにつけ歴史の重い事実を思い、哀しくなってきました。

 本作品のベースとなったのは『史記』列伝の「田儋<(でんたん)>列伝」です。『史記列伝』の紹介ページに原書を引用しましたので、興味ある方はこちらもどうぞ。

(2003/11/03追記)
 宮城谷さんのインタビュー記事が新聞に載っていました。待望の新刊情報もありましたのでご紹介しましょう。
香乱記を書き終えて (2003/10/28毎日新聞夕刊)
【田横は僕の理想像】
 斉王の子孫ではあるが、祖父の代に野に下り、従兄(いとこ)の田儋(でんたん)、兄の田栄(でんえい)とともに平穏に暮らしていた田横は、始皇帝崩御による歴史の大変動の中で、兄たちと共に「他国への不可侵」という理想を持った斉国の樹立を目指して立ち上がる。
 剣の達人で、人を裏切らず、信念を通す田横は周囲の人間を引きつけてやまない。七星と言われる七人の異才が彼を慕って集まり、最後まで行動を共にすることになる。連載前に「田横は僕の理想像。反権力的でどんな相手にも屈しない」と宮城谷さんは語っていた。
 「だれから見ても魅力があり、こんな人の下で働いてみたいと読者に思われるように書かないと小説として成立しない。それには書き手が田横に惚れていないとだめですが、僕は昔から田横を尊敬していた。そういう点で全く後ろめたさの無い小説でした」
(中略)
 「基本資料の『史記』は項羽と劉邦にすべての記述が向いているようにみえる。でもよく読むと、その流れに合わない人物がたくさん登場する。大きい歴史からは外れているので無視されることが多いけれど、丹念に読めば、そういう人たちの動きや生き方の方向が見えてくる。それをやらないと本当の意味で項羽と劉邦の時代はわからないと思いました」
 田横を配すことで、項羽と劉邦の登場以前に秦朝打倒のために戦った人々の存在意義、戦いの意味が浮き彫りになった。
(後略)
そして、この記事の最後にこう書かれていました。
『香乱記』の単行本は、来年1月から、上・中・下の全3巻で毎日新聞社から刊行される予定だ。

(2002/04/28掲載)
【宮城谷さん新作情報】
 4/23毎日新聞に以下のような記事がありました。これで月刊誌への連載2本、日刊紙への連載1本となりますが、すごいパワーですね。 以下に本文より少々引用します。
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(前略)
「香乱記」の背景は秦朝末期。項羽と劉邦が覇権を争った時代です。その戦乱の中で、いかなる権力にもくみせず、勇敢に立ち向かった田横(でんおう)を中心とする田氏の3兄弟と謎の貴公子の活躍が描かれます。著者自ら「新境地を開きたい」と語る意欲作です。
挿絵と題字は原田維夫さん。迫力あるタッチをお楽しみ下さい。

 不屈の精神に浪漫の香りを 作者
 秦の始皇帝が亡くなり、二世皇帝の政治が始まるとほどなく大規模な叛乱(はんらん)が勃(お)こります。そのなかでいっせいに群雄が起(た)ち、群雄の中でも運と力をそなえた項羽と劉邦が秦王朝を倒したあとに争います。それを楚漢戦争といい、数年間つづいて劉邦の勝利で終わります。
 群雄はことごとく劉邦に屈するのですが、たったひとり田横という英雄だけが劉邦に降伏しなかった。それは後世の中国人にとっても誇りであり、田横の生きかたと進退は比類のない精神的な範となったのです。田横がどのように生きたかは『史記』の「田儋(でんたん)列伝」に書かれていますが、かれの不屈の精神に浪漫的な香りを添えてみたい。
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とのことです。
う〜ん、読みたいけど私は新聞の連載を読み続けるのは苦手なので、しばらく我慢して本になるのを待つことにします。

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