中国傑物伝

陳舜臣(ちんしゅんしん) 著
中央公論社


 「傑物」を広辞苑で引くと『特別にすぐれた人物』と書かれています。本書のタイトルについて、著者はあとがきに次のように書かれています。
 タイトルの「傑物」は、たぶんに編集者のアドバイスに従ったものだが、さまざまな人間のタイプの中で、とくに突出して見える人物を意味する。そんな人物はたくさんいるが、私は中国の歴史の中から、私なりに選んだ。その基準を問われたなら、好みに従ったと答えるしかないのである。
   :(中略)
 傑物とは、彼にとって幸せならざる時代に生まれあわせた宿命的人物といってよい。よく歴史上のすぐれた人物に学べ、といわれるが、正直なところ、私は彼らに学ばねばならなくなるのはご免蒙りたい。
 私は読者の皆さんに、ここに登場した十六人の傑物がほかの生き方ができなかったのだろうか、と思いながら読んでいただきたい。なぜなら作者はそう思いながら書いたのだから。

 本書に登場する傑物たちをご紹介しましょう。
(1) 范蠡(はんれい)
 范蠡は『史記』の中で「越王勾践(こうせん)世家(せいか)」と「貨殖列伝」の2ヶ所に書かれています。つまり、春秋五覇の1人にも数えられる勾践に仕えた名宰相であり、その後越を脱出して陶の国で朱公と名乗り商売人としても成功した人です。中国で陶朱というのは富豪の代名詞だそうです。
(2) 子貢(しこう)
 子貢は孔子の弟子ですが、「子貢は仲尼(ちゅうじ:孔子)よりも賢い」といわれた人です。勿論、本人は「一般に賢者といわれている者は、ちょっと小高い丘のようなもので、越えていくことができる。だが、孔子は日月なのだ。日月を越えることなどできることではないのだ。」とこたえています。『史記』には「子貢、一たび使いするや、勢いをして相破らしむ。十年のうちに五国各(おのおの)変あり。」と書かれています。孔子一門がいた魯の国の危機を救ったのです。
(3) 呂不韋(りょふい)
 呂不韋は秦の始皇帝の父といわれる人です。宮城谷さんの作品『奇貨居くべし』に描かれています。
(4) 張良(ちょうりょう)
 張良が黄石公の落した沓(くつ)を捧げて真心を示し、兵法の奥義を授かるという伝説(?)が観世信光が能の演目に取り上げています。秦の始皇帝亡き後、漢の高祖(劉邦)が項羽を破って天下を取れたのは張良、韓信(かんしん)、蕭何(しょうか)という高祖三傑と呼ばれる人がいたからだといわれています。
 司馬遼太郎さんの作品『項羽と劉邦』に登場します。
(5) 漢の宣帝(せんてい)
 漢の高祖(劉邦)や明の太祖(朱元璋)のように庶民が王朝の創始者になることはありますが、大王朝の皇帝が庶民出身というのは漢の宣帝(劉詢)ただ1人だといわれています。
 北宋の史家で『資治通鑑(しじつがん)』をあらわした司馬光は「少恩なるかな(恩情に乏しい)」と評していますが、資質については「聡明にして剛毅。民の疾苦を知る。」と激賞しています。
(6) 曹操(そうそう)
 おなじみ、『三国志』に登場する文武共に優れた人物です。陳寿の正史『三国志』と違い、羅貫中の『三国志演義』では憎まれ役として描かれていますので、一般的にはあまりイメージが良くありません。しかし、最近は曹操を優れた英雄として取り上げる作品も多くなっています。本書でも公平に扱われています。
(7) 苻堅(ふけん)
 苻堅はチベット系の氐(てい)の首長でした。理想主義者であり、博学多才と謳われた苻堅は「治国平天下」という大志を抱き、前秦皇帝として天下を統一して人種、民族の差別を解消したのです。しかし、その理想過剰により享年48歳で滅ぼされてしまいます。
(8) 張説(ちょうせつ)
 大唐の傑物といえば、太宗李世民(りせいみん)、武則天(ぶそくてん)、玄宗李劉基(りりゅうき)の3人でしょうが、あえて張説を取り上げたのは筆者のこだわりです。武則天、玄宗に重用されましたが、微賤(びせん)の出身のため何度も失脚させられています。
(9) 馮道(ふうどう)
 馮道は唐の滅亡後、半世紀の間に五つの王朝が興亡し地方には十の政権が興った「五代十国」の時代に、5つの王朝、8姓、11君に仕えた人物です。こう言うと、日和見主義者のように聞こえますが、決してそうではなく彼こそ「現実主義者」であると筆者は言います。馮道によれば民を安養することが「大善」であり、主君への忠節は「小節」なのです。
(10) 王安石(おうあんせき)
 王安石は北宋が傾きかけた時代、宰相として再建を図りました。「青苗法」「市易法」「募役法」という新法により庶民を救ったのです。また、詩人としてもすぐれており、多くの詩を残しています。
  一民の生 天下に重し
  君子 与(とも)に秋毫(しゅうごう:僅かなもの)を争うに忍びんや
これは若い頃、知事であった時に書いた「収塩」と題する詩です。
(11) 耶律楚材(やりつそざい)
 耶律楚材はチンギス・ハーンに仕えた元の名宰相です。『元史』には「楚材、身長八尺、美髯(びぜん)宏声(こうせい)、帝(チンギス・ハーン)之を偉とす」と書かれています。この頃の一尺は30cm余ですから、身長2.4mになってしまいますが、これは『三国志』の諸葛亮伝に書かれている孔明の身長八尺とだぶらせたようです。後漢時代は一尺が23cmですから身長1.8mとなり、これはありそうです。耶律楚材のキャリアが諸葛亮(孔明)と近いので、これを書いた人が同じ表現にしたかったのでしょう。
(12) 劉基(りゅうき)
 元を滅ぼして明を建てた太祖(朱元璋)は劉基を呼び捨てにせず、漢の高祖劉邦に対する張良と比べ「吾が子房(しぼう:張良のあざな)」と呼んだ。つまり、劉邦は張良の智謀により天下を取ったが、「そなたはわしの張良だ、そなたの智謀で天下を取りたい」ということです。
(13) 鄭和(ていわ)
 明の永楽帝の命により行われた15世紀初頭の鄭和による「大航海」は人類の壮挙であると筆者は激賞しています。7回にわたった大航海の初回は、巨船62隻、乗組んだ将兵2万7千8百余といいます。巨船は長さ150m、幅62mで現代で言うと八千トン級だそうです。この九十数年後、バスコダ・ガマが喜望峰を廻ってインド航路を「発見」したときの旗艦が120トンクラスだったそうですから、いかに巨大な船であったことがわかります。
 鄭和はこの7回の大航海をほんの例外を除き、ほとんど武力を用いないで成功に導いています。各地に鄭和を祀った「三宝廟」(アユタヤ)や「三宝洞」(ジャワ)などが残されており、これからも彼の遺徳が偲ばれます。なお、鄭和はあざなを三保といいますが、「保」(パオ)を同音の「宝」にわざわざ言いかえているのも好意が感じられます。
(14) 順治帝(じゅんちてい)
 中国史上、最も名君に恵まれ「三世の春」と謳われる康煕、雍正、乾隆の時代130年余りが清朝の全盛期でした。中国の東北部に満州族の政権、清朝を建てたのは初代皇帝の太祖ヌルハチですが、二代皇帝の時代まではローカル政権に過ぎませんでした。中華帝国となったのは三代皇帝の順治帝のとき、山海関を越えて北京に入ってからでした。
 順治帝は5歳で即位、摂政が死んで親政を始めたのは13歳の頃でした。最初の詔書には「朕は今日官民の苦を均(ひと)しく知る」とあり、民衆が楽になるような施策を行っています。また、「朕の躬(み)に如(も)し過失有らば、諸臣須(すべから)く直諫(ちょっかん)して隠(かく)す無かれ。」と言っています。これら若い皇帝の理想主義を政治の骨格にする姿勢を示しています。順治帝はロマンチストで、愛する皇妃が死んだあと24歳で死んだことになっていますが、実は皇妃が死んだの悼むあまり出家したのだという説が流れたそうです。
(15) 左宗棠(さそうとう)
 19世紀、太平天国の乱は失敗したけれど現代中国では清朝に対する果敢な叛乱として高く評価されています。これを鎮圧した側は反革命分子という烙印を押されていますが、左宗棠もその中の1人です。しかし、最近ではロシアの侵略をはねつけた人物としての再評価もされてきているようです。
(16) 黄興(こうこう)
 清朝が滅んだ辛亥革命を成功させた孫文、黄興、章炳麟(しょうへいりん)は革命三尊と称されました。彼らはそれぞれユニークな人物で、融和するのは難しかったのですが、意見の衝突を重ねながらも革命に向かって提携できたのは黄興が自分を抑えることができたからなのです。彼は晩年、揮毫(きごう)を求められるとよく「無我」の2字を書いたそうです。

 

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