楽毅

−人が見事に生きるとはどういうことなのか−
 これがこの作品のテーマです。主人公、楽毅(がっき)は若い頃、自分の国中山(ちゅうざん)の敵国斉の都臨淄(りんし)にこっそりと留学します。中国で一番賑やかで文化の中心と言われるその都りんしの雑踏の中で「人が見事に生きるのはなんと難しいことか」と考えます。
 戦国時代、主人公の楽毅は見事に生きた一人といえましょう。司馬遷の「史記」、書聖・王羲之が「楽毅論」で取り上げたそうです。ちなみに、本の表紙は王羲之の書です。また、三国志に登場する諸葛亮(孔明)が憧れた二人のうちの一人です。
 この本はこれまで読んだ宮城谷さんの小説の中で一押しのものです。私の知識なんて大したことがないので、実はこの本を読むまでは楽毅と言う人物を知らなかったのですが、すっかり虜になってしまいました。宮城谷さんの他の作品に登場する数々の英雄も魅力的なのですが、私の好きな諸葛亮(孔明)が憧れたということにも納得してしまいました。
(新潮社 刊)

 ときは古代中国の戦国時代です。楽毅は大国に囲まれた小国・中山(ちゅうざん)に宰相の嫡子として生まれましたが、諸子百家の気風に魅せられて、身分を偽って斉の都に留学します。当時、斉では優れた人を集めるという政策を採っており、都臨淄(りんし)には多くの人が集まっていました。その雑踏の中で、「人が見事に生きるのはなんと難しいことか」ということに思いが届きます。このころ、名宰相として有名な孟嘗君(もうしょうくん)は斉にいて、ひょんなことから楽毅に会い大きな影響を与えることになります。
 臨淄にはさまざまな文学・学問があふれ、中山にいたのでは決して得ることのない知識を修得します。特に、この時に身につけた孫子の兵法は、後に楽毅の活躍を支える大きな基礎になります。

 故国にもどった彼を待ち受けていたのは、大国・趙による侵略でした。中山は元々諸侯だったのですが、君主が王を称してから近隣の国に嫌われていました。中山の君主は見栄ばかりが尊大で実が伴わず、国としての目標も不明確。おまけに外交もそれほど行わず、国民への情愛も薄いという、放っておけば、孤立して自滅しかねない国でした。
 四度にわたる執拗な趙の侵略。宰相だった楽毅の父は自ら望んで死地へ赴きますが、中山国は国土の大半を失ってしまいます。しかし、依然として中山の君臣は驕り、国家の存続を信じて疑いませんでした。そのような愚昧な王は楽毅の忠誠を知らず、彼を疎んじてしまうのです。しかし、仇敵・斉の血を引く太子は中山王に疎まれていたが、その人柄は王にふさわしく、楽毅はきたるべき太子の時代を思い、国のために忠誠を尽くすのです。

 楽毅の努力も空しく、中山国は滅亡してしまいました。忠誠を尽くすものもなく、彼は流浪することになります。中山を滅ぼした趙の武霊王は、自分が王にかつぎあげた恵文王に殺されてしまいます。武霊王が心変わりし、かつての太子を王にしようとしたため、身の危険を察した恵文王が逆に太子を滅ぼしてしまうのです。兄弟同士の殺し合いを黙認した武霊王は臣下にも見放され、最後には一人幽閉され餓死することになります。趙を大国にした武霊王は自らの能力が結局自分を滅ぼしてしまうことになったのでしょう。

 流浪し雌伏のときをすごす亡国の将、楽毅の前途に光明がさします。天下の興望を集める孟嘗君との再会、楽毅を高く評価する燕の昭王からの招聘。そして楽毅の双肩に託されたのは、小国の燕が大国の斉を伐つ、という妄想にも等しい昭王の大望でした。燕の昭王は、かつて「千里の馬を逃した」と、楽毅を招聘できなかったことを悔やみ、ずっと楽毅がくるその日を待ち焦がれていました。昭王の礼の重さに感動した楽毅はそのまま昭王の客として燕に住み、昭王の大望に応えるため、楽毅は才知をふりしぼって現実へと導いていくのですね。
 「隗より始めよ」と言う言葉がありますが、「千里の馬」というのは、その故事によっています。
 燕の昭王は、賢者を募るのですが思うように集まりません。そこで、家臣の郭塊(かくかい)に相談すると、次のような例えを引いて「王が千里の馬のような人材を求めるのなら、まずこの郭塊から優遇してはどうでしょうか」といったのです。
 昔、ある主君が千の金で一日千里を走る馬を求めましたが、三年経っても千里の馬は手に入りませんでした。そこへある男が 「千里の馬を手に入れて差し上げましょう。」と言って、主君から千金を預かり、千里の馬の骨を五百の金で買って帰って来ました。主君は大いに怒りましたが、その男は「私が五百金で千里の馬の骨を買ったことにより、世間では千里の馬の骨ですらあれほどの高値で買うのだから、生きた千里の馬ならばいかに高価に買い取ってくれるだろう、と思うでしょう。そうすれば、黙っていても千里の馬は手に入ります。」と言ったのです。その後、その男の言葉通り、一年もしないうちに千里の馬が三頭も手に入りました。

 その頃、強国であり燕の隣国である斉の王は湣(びん)王でした。斉は近隣諸国を攻め、韓、魏、趙と共に秦を攻めたり、宋を滅ぼして自国の領土にしたりとまさに向かうところ敵なしの絶好調です。しかし、他国の恨みを買い、相次ぐ戦で斉国内も疲弊していました。そこで昭王は、今が斉を討伐する時期だと思いましたが、楽毅は「いかに国内が疲弊しているとはいえ、斉は大国です。我が一国だけで攻めては、失敗する可能性が大きいと思います。そこで、斉に恨みを持つ諸国と共に斉を攻めることに致しましょう。」と進言します。昭王はこの意見を採り上げ、外交工作によって、韓、魏、趙、秦が同盟を組んで斉を攻めることになりました。
 五カ国軍の総大将は楽毅です。連合軍は見事に斉をうち破り、湣王は斉の都まで逃げます。ここで韓、魏、趙、秦の部隊は、それぞれ自国へ引き返しますが、楽毅率いる燕軍は斉に残って斉の都まで攻め上ります。湣王は楚に援軍を頼みますが、既に遅く楽毅率いる燕の軍勢を支えきれずに、斉の都を捨てて逃げます。楽毅は、斉の都に入ると、斉の財宝を全て奪って燕に送ります。

 楽毅は見事に斉の国を治めますが、愚昧な燕の太子は楽毅が斉王を名乗ることを畏れます。そして昭王に楽毅を陥れるように勧めますが、楽毅を信頼している昭王は「愚かなことを言うでない。たとえ楽毅が斉王になろうとも、それは彼の功績からいって当然だ。」と言って、太子を「君臣の信用を乱すことを言った罪」で、むち打ちの刑にします。
 そして、昭王は楽毅を斉王に任命するという使者を送ります。楽毅はこの使者の言葉を聞いて大いに感激し、泣いて昭王の、自分への心遣いに感謝しますが、「自分は死んでも斉王になるわけにはいかない。」と言って、斉王になることを辞退するのです。

 しかし、昭王は大望がなる寸前に崩御してしまいます。そして、後を継ぐ嗣王は愚昧であり、以前にむち打ちにあったことを恨んで楽毅を憎んでいました。斉の平定間近の楽毅の任を解き、処罰しようとするのです。悲しんだ楽毅は、そのまま趙に亡命します。ここで楽毅を心待ちにしていた恵文王に仕えることとなります。
 燕の国から呼び戻され、そのまま燕に帰ったら楽毅は殺されるのは明白です。楽毅が考えたのは「もし自分が殺されてしまったら、自分を殺した息子の父として昭王の名を傷つけることになってしまう。だから自分は亡命する」というものです。その楽毅の忠と誠実の在り方は本当に見事なものですね。
(以下、2003/10/13 追記)

楽毅語録(その1)
 楽毅が密かに留学していた臨淄から帰国するとき、従者丹冬と交わした会話。ここに出てくる薛公とは、
孟嘗君のことです。
「独りで斉都にお住みになり、なにを視、なにをお聴きになりましたか」
と、丹冬にきかれた楽毅は、
「独りで生きることはさびしい。自分のさびしさを視、自分のさびしさを聴いたにすぎぬ」
と、いつわりのないことをいった。
「さようでしたか」
「だがな、丹冬、そのさびしさのむこうに人の真影がある、ということもわかったよ」
「田氏とお知り合いになったことですか」
「田氏はふたりいた。ひとりは市場の役人だが、ひとりは宰相だ。人の偉さというのは、孤独の深さにかかわりがある。薛公はそれをおしえてくれたよ。そういうことは、書物を読んでいるだけでは、なかなか気づかぬ」

楽毅語録(その2)
 趙の武霊王の命で、魏の大梁に住む人相見の大家唐挙(とうきょ)を迎えに行った使者李兌(りたい)との会話。
「まことに失礼なことをお訊きするが、先生は、ご自身の吉凶や妖祥をみきわめておられるのだろうか」
 と、いった。かねての疑問である。
 唐挙は口をつぐんでいる。
 ――機嫌を損じたかな。
 李兌はひやりとした。しかし唐挙は不快な顔つきはせず、
「人を相するものは、無私でなければならぬ。その無私に人の運命を映しだす。それゆえ、一瞬であろうと、相手と運命をともにする。相手が吉祥の持ち主であればよいが、凶妖をもっている場合は、それに憑かれるので、祓わねばならぬ。要するに天与の幸を享ける者は希にしかおらず、その人に付すことによって幸をわけてもらうのが幸運とよばれているものである。いまかるがるしく天命というが、天命を知るものはかつて天子しかおらず、諸侯でさえ地神を祀る者でしかなかった。それゆえ貴殿のような人臣は、天地の命をうかがい知ることはできず、すべては人により運命は左右されるとお考えになるがよかろう。幸運の人にお属きなされよ」
 と、諄々といった。
 ――嘉言なり。
 すぐれた君主に仕えればすぐれた臣になる。運の良い人とつきあえば自分の運もよくなる。いたってわかりやすいことを唐挙はいったのだが、要するに、人を洞察する目をもちなさいと暗におしえてくれたのであろう。なぜなら、幸運にみえていた人は一朝一夕にして不運に落ちこむかもしれず、不運つづきの人も突然幸運がつづくようになるかもしない。が、人には不動のものがある。それをみぬく目をやしなわなければならぬ、ということであろう。

楽毅語録(その3)
 大国趙に攻められる前、呼沱水に近い塞にこもって大軍を迎え撃つ準備を行っているときの場面。
 新しい砦の完成後、郊昔は山径に柵やしかけを設けはじめた。それをぼんやりとながめている楽乗を、いきなり楽毅は鞭で打った。
「良将は、晴天に嵐を想うものだ」
 と、叱呵した。
 ――王尚がおられる扶柳の城が落ちれば、何のための呼沱の砦か。
 と楽乗はぼんやり考えていたのであろう。
 まえをみすぎれば足もとがおろそかになる。足もとをみすぎればまえがおろそかになる。人の歩行はむずかしい。目的がなければ努力をしつづけにくい。が、人が目的をうしなったときに、目的をつくるというのが、才能というものではないか。平穏無事を多数とともに満喫しているようでは、急変の際に対応できず、人の生命と財産を守りぬけず、そのためにはつねに戦時をおもい、襲ってくる困難をあらゆる角度で想定し、つぎつぎに対処してゆかねばならぬはずである。いわば人の大小、賢愚、吉凶は、平穏な日々、不遇な時のすごしかたによってさだまるといっても過言ではない。
 楽乗が一兵士として一生を終えるというのであれば、楽毅は何もいわぬが、良将に育てたいというおもいがあるため、叱声をくだした。
(中略)
 近くでふたりを見守っていた丹冬は、頭を垂れた楽乗が去るのを待って、
「ずいぶん厳しいご教馴ですね」
 と、楽毅にいった。
「ふむ、乗は知恵のつかいかたがはやい。徳も知恵も積みあげてゆくものであり、少々溜まったからといって、手軽につかってはなるまい。小成は大成へのつまずきであるといわれるが、いまの乗をみていると、小成をつかんでうぬぼれかねない。乗の目は人より先を見通すが、真の知者は、先の先を見通す。が、それより先を見通すものは、先走りすぎてかえって失敗する。先の先が、絶妙なほどというものだ」

楽毅語録(その4)
 いよいよ趙の大軍に攻められ、いよいよ危うくなったときに楽毅と中山王の尚とが交わした会話。
「城邑があってこそ、王だ、というつまらぬこだわりがわしにはある。山野に奔れば、わしは王ではなく、狄の首長にひとしくなる。それが耐えられぬ。わしは王として死にたい。こういう恣心に、将軍のような大才をまきこみたくない。将軍こそ、ここを去って、天下に華名を咲かせてもらいたい」
 王尚は守兵の大半を楽毅にあずけて退去させ、自身は側近とわずかな兵でこの塞を守り、殞砕したい。
「死は、おのれの生命も、名も、人にまかせることです」
 死を美化することを楽毅は好まない。自分ではみごとに死んだつもりでも、他人はそうおもうとはかぎらず、むしろうぬぼれのなかで滅んだとみるかもしれない。死が美しいのであれば、多数の死者をだして敗れることが美しいことになってしまう。王尚はそういう目で戦死者をながめなかったはずである。兵と将とはちがうということであろうか。
 楽毅は戦って死ぬことを考えない。戦って生きるのであり、生きるために戦うのである。戦いは、進退がすべてであるといってよい。それゆえ、生きることも進退なのである。美しさがあるとすれば、進退にこそある。その進退を生死にすりかえてしまえば、人はおわりであり、あえていえば、死ぬまえに死んでいる。
 楽毅は懇々といった。
 うつむきがちに楽毅の言をきいていた王尚は、ようやく首をあげ、
「わかった。わしが悪かった。将軍がぞんぶんに戦えるように、わしは山懐の砦に移ろう」
 と、素直な声を発した。
 王尚はひそかに楽毅を兄とおもい、戦陣においては、この兄に仕える気でいる。この心根がなければ、この王は我意のなかで滅び去ったであろう。

(以下、2012/11/10 追記)
 またまたの再読です。読み直してみて、あらたな世界が見えてきました。
 おそらく、楽毅を通して宮城谷さんは言いたいことを言っておられるのであろうと。今回、ふと次の一文が目につきました。楽毅はその子、間の教育をかつて放蕩を行っていた単余をなかなかの人物と考え、彼に託そうと考えていましたが、母親である孤祥は楽毅の師の弟である季進に頼みたいと考えており、意見が合いません。
「わしとそなたでは、人のみかたがちがうらしい」
「ちがいませぬ。間のみかたがちがうのです
 と、孤祥は語気を強めていった。間は手のかかる子ではない。おとなしい。おとなしいということは、陰気であることとはちがい、自我の露呈を恐れる心をもっているということであり、幼児の世界しかみえない目とはちがう目で、ほかの世界をとらえているがゆえに、恐れる心が育つのであり、かえってかしこさのあかしである。と孤祥はみている。これが母親の目である。
 間のなかにある良い素質を明るく展開させるには、人格に明るさのある人に助けてもらうのがよく、あえていえば人格の修辞を季進によって教えてもらいたい。
 が、父親の目はそうではない。幼児に覇気を求めているわけではないが、わが子がおとなしいということに、若干の不安がある。それを、外の物を内へ内へととりいれてゆく力とはみずに、心気そのものの弱さとみた。心気に強さと浩[ひろ]さをもっていないかぎり、知識も経験も、最大限に活かせない。自立し、自在である個性とは、おのずから発揮されるものであり、他人の個性を借りて表現されるものではない。
 季進の人格は押す型に属し、単余のそれは引く型に属する。孤祥が間を季進に師事させたいのは、押してゆく、ということを間に学ばせたいのであろうが、楽毅の考えでは、間は季進の長所を学ぶまえに、季進の長所と短所を模倣し、自己をうしなってしまうであろう。私心を消せない季進にひきかえ単余は、おそらく個の存立ということに悩んだことがあり、それゆえに無心がわかる人である。もっといえば、楽毅は自分の子に、人のありかたを教えるまえに、人がこの世にある、という根元的なことをみじろぎもせずに凝視する時間をもたせたい。人のすべてはそこから発する。不動の目をもってこそ、動、がわかるのである。とくに静と動がいりみだれる戦場における将軍には、その目が必要であり、後天的な戦術眼はその目から派生するものにすぎない。楽毅はそこまで妻にいわなかったが、
「季進どのは、親しみやすい。やがてわしもそなたも、かの人に狎れるであろう。それを間はみのがさぬ。師というものは、尊敬と恐れをもって仕える人でなければならぬのに、われわれの心のあり方が、間に知られれば、間も師に狎れようとする。狎れは、あなどりを産む。あなどりに足をかけては、人格の高みに登ってゆけない」
 と、さとすようにいった。
 教育というものに対する宮城谷さんの考え方を、楽毅の口にいわせておられるのでしょう。
 今回は文庫版を読んだのですが、最後の解説に秋山駿さんが書かれています。
 なるほど、『史記』の列伝には、楽毅の伝記があるが、読んだとき、私は格別な印象を受けずに通り過ぎてしまった。まさか楽毅が、こんな非凡な戦争の天才であり、こんな見事な名将であったとは! 私は宮城谷さんの全4巻を息もつがずに読み、頭を叩いて三嘆した。――そうか、楽毅とは、こんな非凡な戦争の天才であったのか、名将であったのか。これは大きなことだった。私にとっては発見であった。中国を識ろうとする日本人にとっての貴重な贈り物である、といっていい。
 確かに、岩波文庫の『史記列伝』「毅列伝 第二十」を見てみましたが、僅か7ページしかありません。これだけ読んでも、この『楽毅』に描かれている人物像はなかなか思い浮かびません。秋山さんは解説の最後にこう書かれています。
 もう一つおもしろいのは、これが小説が生き物であることの不思議さだが、作者の人間が、楽毅の生の深化とともに、第一巻から第四巻にかけて、しだいに大きく感ぜられてくることだ。作品も同じことで、第一巻に感化するのは、行動する人間のさっそうたる英気だが、第四巻に感化するのは、人間や人生を視ての密度と、沈着と、深刻である。
 われわれは、この作品を読んでいくうちに、楽毅の成熟とともに、なんだか自分の人間の器量が少し大きくなった、という感じを受けるはずである。それがこの作品の貴重さであり、魅力である。

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