<(ふくろう)>の城

司馬遼太郎 著
新潮文庫


 ここのところ、司馬遼太郎さんの作品から遠ざかっていましたが、ふと見つけて読み始めました。司馬さんの作品には映画化されているものが多いですが、本作品もそのひとつです。映画でこの作品の魅力をどれくらい表現できているか、ちょっと興味あるところ。

 裏表紙に書かれている紹介文です。

織田信長によって一族を惨殺された怨念と、忍者としての生きがいをかけて豊臣秀吉暗殺をねらう伊賀者、葛籠<(つづら)>重蔵。その相弟子で、忍者の道を捨てて仕官をし、伊賀を売り、重蔵を捕らえることに出世の方途と求める風間五平。戦国末期の権力争いを背景に、二人の伊賀者の対照的な生きざまを通して、かげろうのごとき忍者の実像を活写し、歴史小説に新しい時代を画した直木賞受賞作品。
 重蔵と五平が裏表の主役級ですが、その他にも重蔵に忠実に従う下忍の黒阿弥、小萩という謎の女、重蔵の師匠である下柘植次郎左衛門、その娘のこさる、甲賀忍者の摩利洞玄など多くの魅力的な人々が登場します。
 途中までのスリリングでミステリアスな展開、そして最後のクライマックス。最後の部分には驚かされましたが、それは読んでからのお楽しみとしておきましょう。

 小萩に重蔵の大望をあきらめさせるよう頼まれた雲水毒潭と、絵師を装っている重蔵の会話。
「おぬしの半身の暗さは、智恵をもたぬ者の暗さじゃとわしは見た」
「うむ?」
「先ほども申したごとく、坊主というのは、人間の生理をそなえておるくせに、人間を超脱しようと志す大それた曲者じゃ。――これ、聴いておるか」
「うむ」
「ところが、おぬしという人間は、みごとに人間を超脱しておる」
「そうかな」
「いかなる方法かは知らぬが、よほど心の鍛冶(たんや)を積んだのであろう。わしがおぬしに惹かれたのは、そこであった。最初はふしぎな毛物でも見るような思いがした」
「――――」
「しかし、もう一度考えてみると、おぬしはそれだけの男じゃな」
「――――」
「なるほど、人間を超脱することは、希有のことではある。がそれだけでは、木石鳥獣と変わるまい。木石鳥獣は、ただ、じねんに生きておる。あのものどもは、生死を思いわずらうこともあるまい。おのれの煩悩をわずらうだけの才慮を与えられてはおらぬでな。生死を超越するだけが解脱の幸福なら、人間は木石鳥獣になればよい。坊主も釈尊も拝まず、松の木でも拝んでおれば済む。」
「断っておくが」
 重蔵は、絵から目を離さずに云った。
「わしはおのれを語りとうはない」
「結構。絵師殿が何者であれ、わしの構うたことではない。とにかく、おぬしの暗さが智恵の暗さというのが、わしには悲しい。われわれ釈教の世界では、その智恵を般若という。おぬしは、人間というものを知らぬ。考えようともせぬ。人間を載せて養うておるこの世界というものを考えようとせぬ。せめておのれの仕合わせについてさえ、考えたことがあるまい。そのくせに、百年打座をしても及ばぬほどに、生死に研ぎすました心を持っている。人の皮を着る者の中で、これほど危険きわまりない生きものはない。一日生かしておけば、一日、世界に害をなそう」
「なるほど」
 重蔵は、顔をあげてじっと毒潭の顔を見つめていたが、別に何も云わず、やがて顔を伏せ、絵師の作業を始めた。
「人間は五十年しか生きぬ」
 毒潭は群青を淡く溶かした重蔵の彩管からにじみひろがる黎明の靉[雲氣]をながめながら、ぽつりと云った。
「五十年の仕合わせを深めていってこそ、人として生まれた甲斐がある。その甲斐を考えるのが、人間の真の智恵じゃ。――おぬしの生き方を捨ててみぬか」
「この絵師を、か」
「いや、本業のほうじゃよ」
 絵筆をもつ重蔵の指先がむっと止まった。と同時に五体の血が、静かに冷えはじめた。この坊主は、おのれが忍者であることを知っているのではあるまいか。
 結局、重蔵は生き方を変えませんでした。毒潭の瞳の明るさに比べて自分の暗さを気づかされ、自分が地獄に向かっていることを言いあてられますが、あくまでも伊賀の忍者としての道を進むのでした。
 重蔵は、同じく司馬遼太郎さんの『燃えよ剣』の主役、土方歳三と通じるところがありました。バカ正直といえるくらい自分の進む道を変えないというところでしょうか。

 梟の城

戻る