大航海

伴野朗 著
集英社文庫


 明の時代、永楽帝の命を受けて大船団を率いてアフリカまで航海した鄭和が主人公です。航海の大冒険というと、ヨーロッパ列強の「大航海時代」を思い浮かべますが、そのずっと前にアジア人がもっとすごいことをやっていたのです。裏表紙の紹介文にはこう書かれています。

コロンブス、マゼランのヨーロッパ大航海時代に先行すること90年――士卒2万7千余名、62隻の大船団を率い、インド洋を経て、遠くアラビアまでの大遠征を敢行した奇蹟の大航海者がいた。明の提督・鄭和である。果断な青年君主・永楽帝、草原の王・ティムール、絶世の美女・鄭妃‥‥。大明帝国建国の中、宦官から大提督へ、数奇な運命から歴史の舞台に登場する若き鄭和!

永楽帝の命を受け、29年間に7次にわたり、南洋からインド洋、はるかアラビア半島、さらにアフリカ東岸にまで押し渡った明の大提督・鄭和。だが、大航海時代の先駆者である鄭和とその業績を記す文献は驚くほど少ない。なぜか? そして、この大航海の目的は何だったのか? 壮大な歴史のミステリーと冒険のドラマの中で、奇蹟の大航海者・鄭和の波瀾の生涯を描く伴野朗の代表長編小説。
 本作品は上下2巻ですが、大航海のお話は下巻から登場します。上巻では明の太祖朱元璋<(しゅげんしょう)>(洪武帝)が立てた第2代皇帝・建文帝と北京に封じられていた燕王・朱棣<(しゅてい)>との戦いが描かれています。結局燕王が勝ち、帝位について永楽帝となるのですが、建文帝は僧侶の姿となって密かに脱出します。この政変を靖難<(せいなん)>の変といいますが、結局は政権の簒奪です。永楽帝は「燕賊、位を<(うば)>う」と書いた方孝孺という文官の一族8百人余を惨殺するとか、歴史の改竄まで行っているほどですので、よっぽど気にしていたのでしょう。
 洪武帝は歴代王朝の滅亡の原因が宦官の跋扈<(ばっこ)>にあることを知り、鉄牌(いつまでも変わらない規則を鉄に刻んだ札)に宦官の政治関与禁止を掲げました。これに対し宦官は恨みを持っており、燕王に内通したといわれていますが、それを取り持ったのが燕王に仕える宦官・馬三宝(後の鄭和)でした。

 帝位についた永楽帝は靖難の変に功績のあった馬三宝を宦官の最高位である太監に抜擢し、鄭和という氏名を賜ります。そして大航海の命を授けるのです。航海の表向きは諸外国に対して明に服属するよう求めることでしたが、実際の所は交易による利を得ることでした。永楽帝は鄭和に対し密かに建文帝の行方を調べるように指示します。そして、計7度に渡る大冒険が始まります。
 第1次 永楽3年(1405年)出発〜同5年に帰国
 第2次 永楽5年(1407年)出発〜同7年に帰国
 第3次 永楽7年(1409年)出発〜同9年に帰国
 第4次 永楽11年(1413年)出発〜同13年に帰国(アフリカに行った分遣船団は翌年帰国)
 第5次 永楽15年(1417年)出発〜同17年に帰国(アフリカに行った分遣船団は翌年帰国)
 第6次 永楽19年(1421年)出発〜翌年に帰国(アフリカに行った分遣船団は翌年帰国)
 第7次 宣徳6年(1431年)出発〜同8年に帰国

 これだけの大事業を行ったのに、その記録は殆ど残っていません。9代皇帝成化帝の時代に再度大航海の計画が出されたとき、それに反対する劉大夏<(りゅうたいか)>という人物が鄭和の残した書類一切を焼却してしまったのでした。それには鄭和が宦官であったということも関係しているのでしょうが、残念なことです。
 ということで、作者の想像力を働かせて本作品を書かれたのでしょうが、いろいろなアヤシイ人物(笑)が登場します。それは読んでのお楽しみとしますが、鄭和の業績を評価してその後も明がこの大航海を継続していればアジアの歴史は相当違ったものになったことでしょう。ヨーロッパの植民地になることもなかったかもしれません。

 ところで、本書で気になったのは外国の地名を漢字で書かれているので、とても読みづらいことでした。勿論、中国ではすべて漢字で書くので、それに倣っているのでしょうが・・・。
 ちょっと拾ってみただけでも、占城<(チャンパ)>爪哇<(ジャワ)>旧港<(パレンバン)>満剌加<(マラッカ)>錫蘭<(セイロン)>溜山<(モルディブ)>蘇門答剌<(スマトラ)>古里<(カリカット)>天方<(メッカ)>忽魯謨斯<(ホルムズ)>榜葛剌<(ベンガル)>という具合です。ルビが振ってあるところもあるのですが、振ってないところもあり、読むのが止まってしまいました。(単に漢字力がないだけ?)

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