中国の歴史

陳舜臣(ちんしゅんしん) 著
講談社文庫(全7巻)


 本書は中国五千年の歴史を読みやすく書かれたものです。教科書のように堅苦しくないのですが、小説ではなくてあくまでも考古学などの史料に基づいて書かれています。私のようにこの方面に興味のある者にとっては楽しい本です。
 全7巻とかなりのボリュームですし、私の読速(?)はあまり速くないので読み終えるのにはかなりの時間を要するものと思われます。ということで、読みながら順次紹介をしていくことにします。

第1巻
・神話から歴史へ

 三皇五帝と呼ばれる古代中国の神話の時代です。神話は歴史ではないということで、司馬遷の『史記』でも三皇は切り捨てて『五帝本紀』から始めました。
 実は、史記の中に『三皇本紀』から始まっているものがありますが、これは唐の司馬貞が補ったものです。司馬貞は三皇を庖犧(ほうぎ)、女媧(じょか)、神農(しんのう)としていますが、異論があって女媧の代わりに祝融(しゅくゆう)を入れるもの、燧人(すいじん)を入れるもの、黄帝(こうてい)を入れるものなどがあるそうです。黄帝は五帝の中に上げられている人で、かなり混沌としているようです。
 五帝となると、史記にも書かれているくらいですから、かなり歴史に近いようですが、ちょうど日本の古事記や日本書紀と同じようなもののようです。司馬遷は黄帝、帝顓頊(ていせんぎょく)、帝嚳(ていこく)、堯(ぎょう)、(しゅん)としています。
 この神話時代の後、歴史的に信憑性のある夏(か)王朝〜商(殷)王朝までが書かれています。このあたりになると、宮城谷さんの作品にもぼつぼつと登場してきます。

・中華の揺籃
 いよいよ周王朝の時代(春秋時代)です。なぜ「いよいよ」かと言うと、私の興味の対象となっている時代だからです。宮城谷さんの作品に数多く扱われているのはこの時代です。
 興味深いことが書かれていました。「共和」という言葉がありますが、これは皇帝や国王が君臨している「君主制」に対する言葉ですが、近代中国の人が帝王のいない時代(英語で言うとRepublic)を迎えてどういう言葉を充てたらよいかさんざん悩んで命名したのがこの言葉だったそうです。紀元前841年から828年まで周の脂、(れいおう)が武装反乱に遭って国を逃げだして帝王のいない時代がり、この時の年号が「共和」だったところから命名されたそうです。こんな古い言葉だったとは面白いものですね。

第2巻
・大統一時代
 春秋時代が終わり、下克上の戦国時代に入ります。
 この時代は、秦という超大国が西にあり、それに対抗する国々という構図でした。合従(がっしょう)連衡(れんこう)という言葉があります。合従というのは、蘇秦が、韓・魏・趙・燕・楚・斉の六国に説いて、連合して秦に対抗させた攻守同盟の政策です。これに対して連衡というのは、張儀が秦の東方の六国(韓・魏・趙・楚・燕・斉)にそれぞれ単独に秦と同盟条約を結ばせようと企てた政策です。
 結局、秦王(政)が天下統一を果たし、秦の始皇帝となります。しかし、司馬遼太郎さんの作品『項羽と劉邦』に書かれているように、秦の始皇帝亡き後、漢の高祖(劉邦)が項羽を破って天下を取ります。

・漢王朝の光と影
 漢の高祖劉邦は天下統一後、功臣を次々と粛清していきます。もっとも、劉邦というよりも皇后である呂后のせいでしょう。彼女の一人息子が虚弱なため、劉邦亡き後、家臣の中から息子を凌ぐ者が出るのを畏れたのです。高祖三傑の一人韓信、梁王に封じられた彭越(ほうえつ)、淮南王に封じられた黥布(げいふ)、燕王臧荼(ぞうと)、韓王信など粛清された功臣は枚挙にいとまがありません。粛清を免れたのは張良、蕭何(しょうか)、曹参(そうさん)、周勃(しゅうぼつ)くらいしかしません。劉邦と竹馬の友であった燕王盧綰(ろわん)でさえ粛清を恐れて逃亡してしまいました。
 漢の国力が絶頂期だったのは、武帝の時代です。大いに遠征して版図(はんと)を広げましたが、歴史から見るとこの時の出費が漢を滅ぼすことになりました。
 元帝の皇后の弟の子である王莽(おうもう)が儒教政治を標榜して人心を収攬し、平帝を毒殺するのです。幼児嬰を立てて自ら摂皇帝の位に就き、ついで真皇帝と称して国を奪い新と号するのです。このことから、王莽は漢の簒立(さんりつ)者といわれています。

第3巻
 漢を簒奪した王莽は亡び、再び漢王朝が成立します。これを後漢と呼びますが、宦官・外戚の横行などひどい状態でした。皇帝が幼いうちに即位し、若くして死んでしまう(いろいろと忌まわしいことも多かったようです)という異常な状態です。
 そうこうしているうちに、黄巾の乱が起こります。いよいよ三国時代の始まりです。この時代については、「三国志」など別のページにも詳しく書いていますのでサラリと流して・・・。
 三国時代も魏により統一されますが、すぐに司馬氏の晋が禅譲を受けます。しかし、それも長続きせず、また乱世となります。いろいろな王朝が乱立したので、ひとまとめにして五胡十六朝などと呼ばれた時代です。そのうちに、南北にそれぞれ王朝が建てられて「南北朝」時代と呼ばれることになります。これを統一したのが隋ですが、これも短期政権で、すぐに唐に取って代わられます。

第4巻
・隋唐の興亡
 中原を統一したのは隋でした。中国の歴史に日本が出てくるのは三国志の時代「魏志倭人伝」ですが、隋の時代になると日本も国力を付けてきて聖徳太子が小野妹子ら「遣隋使」を頻繁に送るようになり、日本史に登場してきますので私たち日本人にはなじみがありますね。
 前にも書いたように短期政権でした。随の文帝楊堅(ようけん)は科挙を始めるなど、その後の唐に引き継がれるような事を行っています。しかし、その後継者の煬帝(ようだい)は最悪の皇帝でした。「帝」という字をわざわざ呉の音で「だい」と呼ぶのは「てい」と呼ぶのが憚られるからだそうです。とはいえ、このようなことを言っているのはその後の唐書であって、自分を正当化するためである可能性が強いのです。
 隋が弱体化して多くの自称皇帝が現れましたが、それを制したのは唐の高祖李渕(りえん)でした。唐王朝はその後300年以上も続く、漢以来の長期政権でしたが、その制度の多くは隋のものを継承していたのです。「花におう長安」と呼ばれた都は日本の平城京(奈良)のモデルになりましたが、その規模は面積にして4〜5倍にも及びます。その都も隋の都大興城(だいこうじょう)を引き継いでおり、漢の都を少しずらしたものです。
 唐の時代にも日本との交流は盛んでした。遣唐使阿倍仲麻呂は17歳の頃遣唐使で唐に渡り、高級官僚となっていましたが日本に帰ることになったのは53歳の時です。しかし、結局日本に帰り着くことはできませんでした。途中の蘇州あたりで作ったといわれる望郷の歌があります。

  天のはらふりさけみれば春日なる
    三笠の山に出でし月かも

 唐は漢と同じように内部から腐って崩壊しました。途中、武則天(ぶそくてん:則天武后)に政権を簒奪されます。彼女は夫の愛人の手足を切断して酒瓶(さけがめ)の中に投げ込むなど恐ろしいことで有名ですが、中国史上唯一の女帝でした。武則天は自ら皇帝となり周王朝を開きますが、彼女の死後、中宗が復位し唐を復活させました。唐の晩年は各地で反乱が起こりましたが、とどめを刺したのが黄巣の乱でした。

・宋とその周辺
 唐が亡んだ後、短命政権が入れ替わります。中国の歴史は長期政権の後、多くの短期政権が続いてそれを制したものが再び長期政権を開くというパターンが多いのです。
 唐の次の長期政権は宋(そう)でした。宋の時代は民衆の力が高まってきて、明るい時代というイメージがあります。文化的にもかなりレベルが高まりました。勿論、唐の時代は「唐詩選」がありましたし、杜甫・李白・白居易という有名な人々を輩出しています。宋の時代には蘇軾(そしょく)が有名ですし、皇帝徽宗(きそう)自身が書画にすぐれた人物でした。しかし、政治家としては最低で、宋を滅ぼしたのは徽宗の責任といってもよいでしょう。
 宋と言って思い出すのは『水滸伝』です。これは宋の末期、徽宗の時代に反乱を起こして梁山泊にいた宋江(そうこう)を主人公とした小説です。『水滸伝』では宋に降ったのち、宋江はじめ豪傑たちは反乱軍を征伐しに行くことになっていますが、宋江は実在した人物で本当にそのようなことがあったようです。

第5巻
・草原からの疾風
 宋は一旦モンゴル系の契丹族の遼の滅ぼされます。そして南に逃れて再度王朝を立てますが、それを南宋と呼びます。宋を南に追いやった遼(西遼)もまた東方の女真族の金に追いやられてしまいます。この辺は玉突き現象となっていて、追いやられた西遼はカラハンを呑み込みます。そして、結局カラハンは後にチンギス汗に乗っ取られてしまいます。
 南宋は何度か北に上り上がろうとしますが、強大な金に追い払われてしまいます。そうしているうちに休戦状態になり、文化の花が咲きます。この頃、南宋では朱熹<(しゅき)>が道学(朱子学)を興しています。朱子学は日本でも江戸時代に盛んであったのでなじみがあります。また、女真族の金はもともと文化程度は低かったのですが、積極的に漢化する政策を取りました。そして中原に残った宋の人間を重用して、文化を高めました。
 金の時代は約90年でした。モンゴルのテムジンが全モンゴルを統一してチンギス汗と称して東へ押し寄せてきました。このとき、モンゴルと南宋とは協力して金を滅ぼします。金の哀宗は北に戻っていきました。その後、南宋はモンゴルと争いますが、金が亡んだ後しばらくはモンゴル軍を破ったりしています。しかし、南宋の内部には派閥争いなどがあり、結局モンゴルの忽必烈<(フビライ)>(元の世祖)に滅ぼされてしまいます。

・復興と明暗
 中国を平定したフビライは国号を元としました。しかし、中国(漢)の人々の心の中までは踏み破ることはできませんでした。元は漢人のなかでもすぐれた人を積極的に重用しています。才能ある人を生かそうとしたのです。
 宋の科挙で主席及第者であった文天祥<(ぶんてんしょう)>は忠臣義士の鑑とされて日本でも江戸時代〜戦前には大いに知られていました。南宋が亡ぶとき、文天祥は降伏を進められましたがそれを堅く拒みます。彼の才を高く評価したフビライはなんとか彼を帰順させようとします。北京へ送られる途中で絶食自殺を図るのですが、身をもって忠誠を示すために生きることにしました。フビライの帰順工作は激しいものでしたが、文天祥は心を動かしません。やがて、地下牢に監禁されます。体が弱れば気力も弱るだろうという狙いでしたが、それでも不屈の意志を貫くのでした。その時に作った詩が有名な「正気<(せいき)>の歌」です。
 地下牢に閉じこめられた人には「水気」「土気」「日気」・・・といった凄まじい7つの「気」が襲ってきます。決してからだが強いわけではないのに、その中に2年もいてなんともなかったのは孟子のいう「浩然の気」を養ったからであり、浩然の気とは天地の「正気」であり、これによって7つの気に克ったのだと正気の歌の序文で言っています。
 元と言えば、元寇を忘れることはできません。フビライは3度目の遠征を考えていたようですが、結局実現しませんでした。
 元は強大な国でしたが、内部から腐るのも早かったのです。元の朝廷は陰謀の巣窟という状態になっていました。世祖フビライが没して50年ほどで各地に反乱が起こります。各地に10人以上の群雄が割拠しますが、最終的に元を滅ぼして中国を統一するのは貧農出身の朱元璋でした。
 朱元璋は最初は呉王、その後南京で皇帝を称し国号を明とします。元の都大都を落とし、モンゴルを北へ追いやります。朱元璋は太祖洪武帝と呼ばれ、その出身などから漢の高祖劉邦と似ているのですが、どうも個人的には劉邦ほどの魅力は感じられません。どうもやることなすこと陰険な印象が強いのです。

             


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