珍妃<(ちんぴ)>の井戸

浅田次郎 著
講談社


 本書は少し前に読んだ『蒼穹<(そうきゅう)><(すばる)>』の続編です。『蒼穹の昴』では戊戌<(ぼじゅつ)>の政変が失敗するところまでで終わっていますが、本書はその後、1902年、2年前の義和団事件から列強が中国を食い物にしていくところがスタートです。
 本書の主人公は義和団事件で起こった略奪の実態を調査するために派遣された、英国のソールスベリー提督です。彼はその調査を始める前、どさくさまぎれにおこった不思議な王妃の殺人事件に重要性を感じ、列強の主要人物3人(ドイツのシュミット大佐、ロシアのペトロヴィッチ公爵、日本の松平忠永子爵)とともに殺人事件の調査を始めます。

 事件のあらましはこうです。義和団事件のとき、列強の8カ国連合軍が義和団や清の正規軍をさんざん打ち負かせて北京になだれ込んできました。西太后は幽閉していた光緒帝やまわりの人を連れて蒙塵<(もうじん)>しようとする混乱のさなか、一人の美しい妃が紫禁城内で命を落としたのです。それも、小さく深い井戸の底に、頭から投げ込まれたのです。光緒帝には皇后と、側室として珍妃の姉瑾妃<(きんぴ)>がいましたが、彼の愛を一身に受けていたのは珍妃でした。彼女は美しいだけでなく、たいへん頭の良い人でした。光緒帝はこれまでの王朝のやり方でなく、一般の夫婦のように珍妃を愛していたのです。戊戌の変の時も光緒帝の相談相手になっていたようでした。
 列強の中でも、立憲君主制をとっている英国・ドイツ・ロシア・日本から見れば、絶対君主制をとる国の宮殿の中で一人の妃がなにものかに殺されるというのは、その国家の仕組みにかかわる大事件でした。ソールスベリー提督を中心にした4人による事件の真相究明が始まります。

 4人は、事件のことを知っていそうな人に証言を求めます。しかし、証人のいうことは、ことごとく異なっており、証言を聞くたびに別の証人の言を聞かなければならない状態でした。読んでいくうちに、この作品は推理小説だと思えてきます。読み進むと、謎は深まるばかりです。

 ・ニューヨーク・タイムス駐在員 トーマス・E・バートン
 ・元養心殿出仕御前太監 蘭琴<(ランチン)>
 ・直隸総督兼北洋通商大臣兼北洋常備軍総司令官 袁世凱<(ユアンシイカイ)>将軍
 ・光緒帝側室 瑾妃<(きんぴ)>
 ・永和宮首領太監 劉蓮焦<(リウリエンチャオ)>
 ・廃太子 愛新覚羅<(アイシンギョロ)>溥儁<(プーシー)>
 ・そして、最後の証人は天子<(サン・オブ・ヘブン)>でした。

 最後まで読むと、浅田さんはこの作品でも中国の哀しみを書きたかったことがわかります。
 前作『蒼穹の昴』でもそうでしたが、本書はそれに磨きがかかっています。
 途中までは謎解きの世界に引きずり込まれてしまいましたが、最後の載恬<(ツアイテン)>(光緒帝)に送る、珍妃の最後のことばが心にしみこみます。

 あなたは天子だからね。
 あなたは世界の天と地とを支える、天子だからね。
 人間どうしが愛し合うことなど、当たり前だと考えている、耶蘇も聖書もいらない、この国の天子だからね。
 自分の富のために、他人のものを奪おうとする人間などひとりもいない、仁の<(おし)>えに満ちた、世界で一番豊かなこの国の、あなたは天子だからね。
 どうか、わかって下さい。
 さようならの言葉は、韃靼<(だったん)>語では何というのでしょうか。
 ほんとうはそれを言いたいのだけれど‥‥きっと、大興安嶺<(だいこうあんれい)>黒龍江<(こくりゅうこう)>や、ホロンバイルの草原に美しくこだまする、風のような音にちがいありません。
 ではみなさん、再見<(ツアイチェン)>‥‥
 ごめんなさい、それしか知らないから。
 再見。
 私の愛しい人。
 そして、私の愛しい人たち‥‥‥

 珍妃の井戸

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