武霊王

桐谷正 著
詳伝社


 武霊王は戦国時代、ちょっと変わった趙の君主です。それまで、中国の諸国の軍隊は馬に引かせた戦車を中心とし、騎馬は文化程度の低い北方の夷狄がやることだと考えられていました。そして、君主や士大夫たるもの、戦車の上でゆったりとした服を着るべきものと考えられていましたが、武霊王は自ら筒袖の胡服を着て馬にまたがり騎馬軍団を率いました。頭の固い人々はこの革新に猛反対しますが、武霊王は自説を押し通し、騎馬軍団を組織して自国の版図を拡大させました。
 「漢字源」には以下のように書かれています。

【武霊王】ブレイオウ〈人名〉
戦国時代、<(チョウ)>の君主。在位前325〜前299。粛侯の子。恵文王の父。名は<(よう)>。北方民族をまねて騎馬で戦うことを教え、領土の拡大をめざした。
 春秋・戦国時代を描く宮城谷さんの作品にも武霊王は登場します。それらを通じてこの人の名前は知っていましたが、どちらかというと脇役的な扱いですので主人公としてどう描かれるかというのが本書に対する興味でした。
 『楽毅』には楽毅の故国中山を攻略し、結局亡ぼしてしまうという立場で登場します。覇権をめざして領土拡大を企てる野心旺盛な君主という役どころです。なかなか魅力的な人物でしたが、その悲劇的な最後が印象に残っています。本書に楽毅がどのように登場するかというところにも興味があったのですが、2〜3回名前が出ただけでした。
 作品の全体的な印象としては、超自然的なことを多く書かれていて、ちょっと個人的な好みとは合っていませんでした。中国の史書などでは皇帝の正当性を導くために、無理やりそのような記述がされていることがありますが、小説にはいかがなものかと。この点で大きくポイントを下げてしまいました。

 趙の粛候13年(紀元前337年)、都邯鄲<(かんたん)>の王宮では巫覡<(ふげき)>(神霊と交感する神官)咸峨<(かんが)>が、粛候に世継ぎとなる男子が産まれるようにと秘術を尽くしていました。粛候には3人の子がいましたが、全て公主(女児)であり、なんとしても男児が欲しいのでした。咸峨によれば、王后の腹にいる胎児は公主であり、その陰陽を転じて男児にするというのです。
 咸峨は祖廟で嘯声<(しょうせい)>(祈祷の前に邪気を払うためのもの)を上げていました。
「後世に英主あらわる。
 彼は赤黒い龍のごとき面貌、鳥囑<(ちょうしょく)>のごとき口をして
 髪、眉、髭のことごとく濃く
 胸、骨格、すこぶる偉大なる、背高き偉丈夫ならん」

「その英主、胡服をまとい
 弓引きやすきよう左衽<(さじん)>し、
 馬にまたがりて壮図を成し遂げん」

河宗<(かそう)>(黄河上流)を領有し、
 戎狄<(じゅうてき)>の地は<(はく)>にまで至り、
 南は韓、魏を伐ち、
 北は黒姑<(こくこ)>を滅ぼすであろう」
 これは趙の朝廷に伝わる、君主の祖先である簡子<(かんし)>襄子<(じょうし)>の事績が書かれた「朱書」に書かれている予言でした。趙の君主は代々この書を読むことになっていたので、粛候も聞いたことがあるものでした。
 咸峨の秘術により粛候は男児を得ます。その子が後の武霊王、雍でした。この子が生まれるときには不思議なことにその右手には馬の毛が握られており、その時息絶えた咸峨の手には狄族が使う<(やじり)>が握られていました。これらをネックレスにして雍のお守りとしました。

 武霊王は型破りの君主でした。即位して8年目、18歳になった武霊王は蘇秦<(そしん)>の唱える合従<(がっしょう)>策に従って旧三晋の韓・魏・趙と燕・斉・夷狄の連合軍にて秦を攻めます(修魚の戦い)が、その時に夷狄の騎馬軍団の姿に興味を持ちます。そして、覇を称えるにはどうしても自国に1万の騎馬軍団を持つ必要があると考えました。
 そして、群臣の猛反対を押し切って服装を騎馬に向いた胡服に改め、戦車ではなく馬に乗って弓を放つ騎馬軍団を組織します。それは「朱書」に書かれていた英主の姿通りでした。趙の群臣は武霊王に渋々従うしかありませんでした。

 中山国を亡ぼして版図を3倍にも広げた趙は秦や斉にも匹敵する大国となりました。38歳となった武霊王は巫覡のすすめに従い、君主の座を10歳となる太子の<()>(惠文王)に譲ることにしました。そして自らは「主父<(しゅほ)>」と名乗ります。
 しかし、惠文王には21歳になる腹違いの兄<(しょう)>がいました。武霊王は何の母親を重んじ、長子である章を廃嫡して何を太子にしていたのでした。

 君主の座から降りた主父ですが、朝廷の中では隠然とした力を持っていました。胡服を着て騎馬軍団を率いて夷狄を攻略します。そして、秦との国境まで来たとき、秦を攻めようとしますが秦は大国、武将達から止められます。
 主父は秦攻略をあきらめますが、事前準備として秦の領土に潜入して秦軍の様子を見に行くと言います。これには武将達も唖然としますが、耳を貸しません。結局、趙の使者を装って秦の昭襄王に面会するのです。
 元の国王が敵国に行き、そこの王と面会するなんて、なんとも痛快な話ですね。

 主父は章を安陽君に封じますが、安陽君は長子であるのに弟である惠文王に臣従しなければなりません。臣下である田不礼は安陽君に謀反をすすめます。安陽君の母親は井戸に身を投げて世を去っていました。田不礼と話すうち、いろいろなことが思い出されて、ついに謀反を起すことにしました。
 主父と惠文王が沙丘宮<(さきゅうぐう)>に遊幸するのを知り、百人の壮士を率いて攻めますが、公子成と宰相である李兌<(りたい)>により返り討ちに合います。
 沙丘宮の東望殿には主父だけが残されました。14歳の惠文王は邯鄲に引き上げ、公子成と李兌は惠文王の政治が落ち着くまでなにかと邪魔な主父を沙丘宮に閉じこめておこうということにしました。沙丘宮には数年分の食糧の備蓄があると思っていたのですが、実際には1ヶ月分もなかったのです。
 武霊王として活躍した人物の最後は餓死という哀れなものでした。

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