中国美人伝

陳舜臣 著
新潮社


 中国歴私小説では英雄を主人公にしたものが多いですが、本書はちょっと違っていて歴史に登場する美女達を主人公にしたものです。史書には簡単な記述しかありませんが、作者は歴史の表面に書かれたことの裏を読み、伝承などと合わせてまとめたのでしょうが、いろいろな女性の生き方を描いています。
 本書には計7人の美女が登場しますが、はじめの3人は私も知っていた人で、あとの4人は初めてでした。「さすが中国四千年、いろんな人がいるものだ」という感慨を抱きました。

 本書の帯にはこう書かれています。

 中国四千年の歴史を彩る
  七人の美女たちの数奇に満ちた生涯

 漢から匈奴に嫁ぎ、二国の融和に一生をささげた王昭君。十四歳で晋の皇后となり、五たび皇后を廃された羊献容。紫禁城を舞台に、皇帝と禁断の恋を繰り広げた皇帝の弟の妻董妃……。時代の波に翻弄されながら、愛をつらぬき、鮮やかに生き抜いた美女たち。その波瀾万丈の人生を、現代にいきいきと甦らせる〈美人ものがたり〉。

西施
 日本でも「呉越同舟」などという諺で知られている、春秋時代の呉と越の争いを背景としたお話しです。主人公の西施は越の宰相、范蠡の策略により女兵として呉に送り込まれた美女です。
 呉を滅ぼした勾践に対して「ともに艱難を共にすべきも、ともに楽しみを共にすべからず」ということをさとった范蠡は西施と共に斉へ行き大富豪になり、そこで宰相になって欲しいという申し出があるのですがそれを断り、陶に行きそこでも大富豪となったというお話しは史記にもあります。しかし、本書ではちょっと違った解釈がなされていて面白いです。
せいし【西施】
春秋時代の越の美女。越王勾践が呉に敗れて後、呉王夫差の許に献ぜられ、夫差は西施の色に溺れて国を傾けるに至った。和漢朗詠集「―が顔色(ガンソク)は今何(イズ)くんか在る」
(広辞苑より引用)
卓文君
 『史記列伝』のなかの「司馬相如列伝」に詳しく書かれていますが、司馬相如という人は学問を終えた頃、藺相如にあこがれて自分の名を相如に改めたそうです。多くの詩を残している人物です。この列伝はもちろん司馬相如側から書かれたものですが、この中に寡婦となった卓文君と駆け落ちして小さな酒場を開いたことなどのエピソードがあります。本書では卓文君を主人公にして書かれたもので、「司馬相如列伝」とはちょっと印象が違っています。
たく‐ぶんくん【卓文君】
漢の武帝のころの女性。四川の人。富豪卓王孫の娘で、文人司馬相如とかけ落ちした。のち、相如の心変りを怒って「白頭吟」を作る。
(広辞苑より引用)
王昭君
 少し前に藤水名子さんの『王昭君』を読んでいますので、その違いが興味深いものでした。本書は40ページたらずの短編、一方は300ページ近い長編ですから、ボリュームの違いはありますが、読後感の爽やかさは同じでした。両者に描かれた王昭君自身のイメージは同じようなものでしたが、まわりの人物の設定が異なっています。特に、宮廷画家の毛延寿のイメージが全然違います。
 あと、筆者の考え方の違い、小説のスタイルの違いなどがあります。藤さんは自分のインスピレーションを大事にしてそれを広げておられるという感じですが、陳さんは、どちらかというと比較的歴史に忠実に書かれているように感じます。もちろん、どちらもすばらしい作品ですが。
おう‐しょうくん【王昭君】ワウセウ‥
前漢の元帝の宮女。名は檣(シヨウ)。昭君は字。元帝の命で前三三年に匈奴(キヨウド)の呼韓邪単于(コカンヤゼンウ)に嫁し、夫の死後その子の妻となったという。のち元の「漢宮秋」などにより、絶世の美人で、胡地にあって怨思の歌を作り、服毒自殺と潤色され伝説化。
(広辞苑より引用)
皇后羊献容
 三国時代が終結し、魏王朝から「禅譲」を受けた司馬氏の晋王朝、第二代皇帝恵帝の皇后が主人公の羊献容です。唐王朝に書かれた正史である『晋書』にいろいろなエピソードが書かれているのですが、この書は誇張が多く、いかがわしいことも多く書かれておりいたって評判が悪いそうですが、それをまとめて羊献容に関して再構成したものが本書でしょうか。
 羊献容は晋王朝の皇后に立てられますが、6年の間に5回廃されます。そして、一度は死を賜る詔書まで出されるという運命を送った人ですが、最後には匈奴の王の皇后となり、幸せな晩年を送りました。まさに「歴史の渦に翻弄された」という人生でしょうか。

薛濤
 唐の時代、妓女として客と詩を応酬するのを特技とした「詩妓」と呼ばれる人がいたという。魚玄機という人と本書の主人公薛濤が詩妓の双璧といわれていたそうです。(千年ほど時代が違いますが、上の卓文君も詩妓といわれています)
 本書によれば、薛濤は十年ほど年長の玉笙(ぎょくしょう)という女性と愛し合っていました。玉笙が亡くなった後、薛濤は紙を漉くことに熱中し、彼女の作った紙は薛濤箋として名を残しています。
【薛濤】
セットウ〈人名〉768〜831 唐代の女流詩人。長安の人。字アザナは洪度コウタク。良家の娘にうまれたが、のちにおちぶれて妓女ギジョとなり、白居易・劉禹錫リュウウシャクなどの文人と交際があった。紅色の原稿用紙、薛濤箋センをつくった。
(漢字源より引用)
萬貴妃
 明王朝の時代、主人公の萬氏は四歳の頃から宮廷に入って宮女として育てられました。明の宮廷には学問・書画・舞曲などを教育するための施設が備えられており、幼少の頃から養われた女性が宮女となっていたそうです。多くの少女の中でも秀でていた萬氏は皇太后孫氏のおつきの宮女に抜擢され、皇太后の片腕になっていました。そして、後に成化帝となる、まだ赤ん坊である皇太子の子守となります。この子守というのは単なる守り役ではなく、ある年齢になると側室役もしなければなりません。この皇太子はひどい吃音で、幼少の時に一度廃されてしまいますが、萬氏の策略により返り咲くことになります。
 皇太子は皇帝となりますが、萬氏の権力は絶大なものとなります。20歳の成化帝の第一子を36歳の萬氏が生みますが、その子は1ヶ月も生きていませんでした。年齢の高かった萬氏はその後子供ができず、そして、別の女性が身籠もったと知ると、薬を飲ませて堕胎させてしまうのでした。
 当時、景徳鎮の黄金時代で、晩年の萬氏は多くの磁器を注文しました。そして、紫禁城に多くのコレクションを残しました。上記のような評判もありましたが、芸術の庇護者としても知られています。

董妃
 清王朝ぼ初代皇帝、順治帝は満5歳で即位しますが、13歳で摂政ドルゴンが死に親政を始めます。清朝の最盛期は三代(康熙・雍正、乾隆)といわれますが、彼らは順治帝の子・孫・曾孫であり、基礎を築いたのは順治帝です。
 順治帝は明君でしっかりした政治を行っていましたが、その一方でとんでもないところがありました。親政を始めてしばらくして彼がいったのは、「皇后を廃したい」ということでした。彼は弟の妻、董氏を熱愛していたのでした。結局、弟の手から取り上げましたが、皇后にすることはできず、董氏を皇貴妃としました。しかし、彼の熱愛はエスカレートするばかりでした。
 順治帝は董妃が亡くなったあと五台山に出家したといわれています。しかし、実は董妃は死んでおらず五台山に出家しており、政治より恋を選んだ順治帝があとを追って出家したという話もあります。なんとも激しいことですね。


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