蒼き狼

井上靖 著
新潮文庫


 本書の主人公は、ユーラシア大陸からヨーロッパまで支配したモンゴル帝国を一代で建てた英雄、成吉思汗<(チンギスカン)>です。広辞苑には以下のように書かれています。

ジンギス‐かん【成吉思汗】
モンゴル帝国の創設者。元の太祖。名は鉄木真(テムジン)。モンゴル高原の遊牧民を統一、一二○六年ハンの位につき成吉思汗と号した。ついで、金(キン)を攻略する一方、西夏に侵入、一九年以降、西征の大軍を発し、ホラズムを滅ぼし、二七年西夏を滅ぼしたが、負傷がもとで病没。征服した地域を諸子に分封、諸汗国の基礎を据えた。チンギス汗。チンギスハン。(在位 1206〜1227)
(1162〜1227 一説に 1167〜1227)
 遊牧民の一部族の首長の子として生まれた鉄木真<(テムジン)>は他の部族との激しい戦いの末、全モンゴルを統一して可汗となり成吉思汗と称します。モンゴルの民はさかのぼると蒼き狼と白き鹿から生まれたという伝説があり、成吉思汗はこの伝説を信じ、自分達は蒼き狼の末裔と考えて西へ東へと侵攻していったのです。
上天より<(みこと)>ありて生まれたる蒼き狼ありき。その妻たる惨白<(なまじろ)>き牝鹿ありき。大いなる湖を渡り来ぬ。オノン河の源たるブルカン<(だけ)>営盤<(いえい)>して生まれたるバタチカンありき。
 彼の若い頃の記録はあまり残っておらず、いろいろと謎に包まれているようです。彼の出生の謎が本作品の伏線としてずっと影響しています。また、彼の長子ジュチも同じ疑問を持っていました。
 彼の後継者たちによりモンゴル帝国はいくつかの国に分割統治されますがその期間は短いものでした。モンゴルの侵攻は厳しいもので、彼に亡ぼされたイスラムの国々では今でもモンゴルに対する恨みが残っているとか。人の恨みはこわいものです。

 本書は英雄の一代記として書かれていますが、ちょっと気になったのは人のセリフがとても堅いのです。金へ出征する前の晩、伴っていくことに決めた愛妾の忽蘭<(クラン)>との会話です。
「ガウランを遠征に伴うことが、いかなることであるか、汝は知っているか」
と言った。忽蘭は即座に答えた。
「知っている」
「いかなることか」
「可汗よ、貴方は私の心の中が判らないのか。ボルテの生んだ皇子たちが揃って従軍する時に、私の生んだガウランも同じ幸運に浴させたいのだ。たとえ三歳の幼児と<(いえど)>も従軍できぬことはない。可汗は私の願いを<()>き届けてくれた。それ以外に何を求めることがあろう。従軍することによってガウランが戦乱の焔に巻き込まれようと、異民族の中に置き捨てられようと、それはガウランの持つ運命というものであろう。私はそんなことは少しも怖れはしない。私は王族の一人たるべくガウランを生んだのではない。名もなき民の一人として彼が出発し、自分の力で自分の道を切り拓いて生きてくれることを願うのみである」
 厳しい世界です。

 蒼き狼

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